泡沫の恋 《8》
 


直江じゃなかった。
直江は美弥を助けてくれた恩人だったのだ。
その答えに行き着いたのは、紺碧の空に幾筋もの光線が差すようになって幾らか経ったころだった。
高耶は自室のベッドの上で蹲ったまま、一晩中窓の外を眺めていた。
暗い室内も、カーテンが引かれていないおかげで昇ったばかりの陽光が照らし出し、目を凝らす必要もなく中の様子を確認することが出来る。
両足を抱え、丸くなった高耶の頬に深い影が刻まれる。
鈍く開かれた瞳の下には、うっすらとクマが浮かんでいる。夜中また泣きでもしたのか、瞼は重たく腫れていた。
雀の囀りが聞こえる。
今日もいい天気になりそうだった。

どう、したらいいのか。
高耶にはその方法が判らなかった。
冤罪もいいところだ。
美弥を救ってくれた恩人を、ちゃんとした確証もなく犯人扱いした挙げ句、報復を狙って酷い嘘で騙していた。
嘘の告白にまんまとはまり、本気でオレを好きになったという直江。
気持ちを散々弄んで、その結果が単なる勘違いだったなんて。
許されることじゃない。込み上げた震えはひたすらに自分に対する怒りだった。
後悔という言葉では済まされない。
・・・逆に、こうも思った。
自分はこれで直江を裏切らずに済む。報復なんてしないで済む。
あの腕を、もう拒まないですむ・・・。
そう考えると、安堵と哀しみで泣けてきた。
直江の優しさには嘘偽りなんてひとつもなかった。それを素直に信じてもいいのだと。
あの温もりを、受け入れてもいいのだと―――、浅ましくも思ってしまった。
そんな資格なんてないと、頭では分かっていても、嬉しかったのだ。
直江じゃなかった。
その事実が、どうしようもなく、嬉しかった。
感じたものは、やっぱり錯覚なんかじゃなかった。もう、生まれかけていた信頼を手放さないでいいのだ。
感情があふれだす。
直江でいっぱいになる。

高耶はこのとき、はじめて知った。
自分のその、感情の意味に。
後悔と罪悪感と謝罪と安堵が一気に押し寄せる中で。
その最中にあって、ようやくたったひとつの答えに辿り着いた。

オレは・・・直江が好き、なんだ・・・・・・、と。
噛み締めるようなその囁きは、掠れた涙声だった。



                        ◆◇◆◇


直江にちゃんと言おう。
自分の気持ちを、ちゃんと伝えるのだ。
もう騙し続ける必要もないのだから、素直に全て話して、謝ろう。
直江はきっと許してくれる。無条件に受け入れてくれる。
もし拒絶されても諦めない。今度はこっちから、直江を追いかける。
そして振り向かせてみせる。
切ない感情が胸を甘く締め付ける。
思えばこれが高耶の初恋だった。

大学までの坂を上る足取りはいつもより堅く、軽く。
初めて知った恋の感触に鼓動が高鳴る。
授業を終えると、高耶は真っ直ぐに直江のいる研究室に向かった。
数日前、千秋が通った道を辿っているだなんて思いもせずに。
8階に着いたエレベーターから降りて、ドアの前で静止すると、高耶は大きく深呼吸した。
正直、すごくこわい。
心臓が冗談でなくバクバクしまくって、息をするのもままならない。
感情のこもった告白の重みをヒシヒシと感じ、あの時騙すために用意した言葉を反芻すると、何故あんなことがすんなり言えたのか、昔の自分に感心すらする。
いまあんなことを口にしたらきっと死んでしまう。
取り敢えず気を落ち着かせようと、何度か深呼吸を繰り返し、ドアになかなか伸びない手を情けなく思いながら、ノックのために作った拳をきつく握りしめる。
なるようになれ!と半ばヤケになって、高耶はようやく小さくノックした。
だが。
「・・・?」
何回ノックしても返事がない。
(いないのか・・・・・・?)
でも、確かに建物の中に入っていくのを見たのに。
怪訝に思って何度かノックを繰り返してみたが、やっぱり出ない。
何だか肩すかしを食らったような気分で、高耶はドアを背にその場にへたり込んだ。
はぁー、と長い溜息をつく。
破裂しそうだった心拍数も、脱力感に伴い正常値を取り戻す。
せっかくの覚悟が無駄になってしまった・・・。
(もー、なんでいないんだよ)
唇を尖らせ、直江を小さく詰ると高耶はゆっくり立ち上がった。
そのままエレベーターホールに向かおうとした時である。
不意に、部屋の中から声が聞こえた気がして、高耶は振り返った。
不思議に思いドアに手をあてて耳を澄ましてみると、微かに中から人の気配と、話し声が聞き取れる。
(誰か来てたのか・・・)
だったら出られないわけだ。合点がいき、ほっと吐息をついた。
そして再び一抹の緊張感が胸を満たしていく。
高耶は客が出ていくのを待つことにして、ドアの横にある壁にもたれ掛かった。
そうしてぼんやり天井を眺めていると、シンと静まりかえった廊下のせいか、部屋の中から洩れてくる声が先程よりも鮮明に鼓膜を揺らしてきた。
話の内容まで聞こえてくる。
高耶は何気なく、その会話に耳を傾けた。
『・・・意味のないことはするなとあれだけ釘を刺しておいただろう。なぜまたあんなバカな真似をやらかしたんだ?』
『・・・・・・』
『一度だけ・・・、と、私はそう言っておいた筈だぞ。君もそのことを理解した上で、頼みを聞き入れたんだろう。違うのか』
なんの話をしてるんだ・・・?
高耶には全く会話の意味を掴むことが出来ない。
直江の言動から察するに、どうやら無言の相手は生徒のようだが。
『どうなんだ・・・?』
『・・・・・・んだよ、偉そうに・・・。アンタのソレは頼みじゃなくって脅迫だろ』
『・・・・・・』
『いつも取り澄ましたようなツラしやがって。アンタの本性知ったらみんな腰抜かすぜェ、直江センセイよ』
『それはこの話には関係のないことだ。今言っているのは、なぜ君があの少女の友人まで襲ったのか、ということだ』
それを聞いて高耶は目を見張った。
(なん・・・だって・・・?)
『私が依頼したのは、あの少女―――仰木美弥を強姦すること。それのみだったはずだ。関係のない娘を巻き込むことはトラブルの元になる。それでなくとも、君は危ない橋を渡っているんだ。そのことを自覚しなさい』
『俺の単位を盾にとってるクセに、先生が生徒に言うセリフじゃないぜ』
『君なら喜んで引き受けると踏んで頼んだことだ。君も楽しんでいたんだからお互い様だろう。・・・実際に今回やらかしたことは私の依頼外だ。責任を取るつもりはないぞ』
『・・・ぅ・・ょ!』
声が遠ざかっていく。
高耶はもたもたと、今更のように両手で耳を塞ぎ、完全に声が途切れるのを願って固く目をつぶった。
どこか、遠くへ行きたかったけれど、足が動かない。
根でも生えたように、その場に凍り付いたまま身動きすらとれない。
「・・・・・・・・・」
高耶は壁にもたれ掛かったまま、まばたきも忘れ茫然と立ち尽くした。

  ・・・いま、あいつはなにを、言っていたんだ?
  いったい、なにを、話してたんだ?

頭が追いつかない。
思考に霞がかかって、理解を拒否する。

  あの男は何者なんだ?
  どういう知り合い?
  おまえはなにを、

  いったいなにを、
  いま、なにを・・・、

  ・・・いって・・・・・・、

―――バンッ!
けたたましい音を立て、扉が開く。
中から憤った表情をした見たこともない男が飛び出してきた。
派手な金色に染めた長髪。
視界の端に捕らえたその姿と、昨夜美弥が告げた犯人像を思い浮かべ、奇妙に一致することに茫然となる。
偶然?
それとも、「そう」だからなのか。
あの男が本当の犯人だからか。
あの男が、犯人・・・・・・。
・・・本当に?

「まったく・・・」
背後から溜息混じりの低音が鼓膜を震わせる。
高耶はゆっくりと、振り向いた。
開け放たれたドアを閉めようとノブに手をかけた直江が、ようやくこちらの存在に気がつく。
瞬間、直江は目に見えて固まり、みるみる表情を強張らせた。
視線がかち合う。
そのまま、時が止まったかのように、ふたりは息を詰めて見つめ合った。

窓から注ぐ雲ひとつない一面の蒼穹が、沈黙の狭間で軋んだ音を立てる。
力の抜けた高耶の肩から鞄が滑り、床に落ちていった。








『泡沫の恋』《8》  END

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