泡沫の恋 《9》
 


泡沫の恋≪9≫



気づくと煙草が切れていた。
引き出しを開いていつも入れてある買い置きを探すが、それも切らしているようだ。
小さく舌打ちし、脇にある山盛りになっている灰皿を見やって嘆息した。些か吸い過ぎだったが、肺のことなど構っていられない。
大学の購買部には煙草は売っていないので、買いに行くなら外になってしまうが、いちいち出ていくのは面倒だ。
諦めて椅子を立ち、部屋に設えてあるソファーにドサリと身体を預けた。とたん、古いせいか重みで軋んだ音が上がる。
直江は億劫そうに少し乱れている前髪を掻き上げた。
・・・・・・千秋には完全にバレてしまっただろう。
昔から勘のいい奴だったので、いつかはこんな日が来るだろうことは覚悟していた筈だが。
実際に第三者に知られてしまうというのはショックが大きい。
千秋が高耶と幼なじみだと分かった時点で、もっと警戒しておくべきだったかもしれない。
直江には数年前の不安定だった時期の自分が悔やまれてならない。弱みなぞ人に晒すものではない。
でもだからって。
「あの人は誰にも渡さない・・・」
やっと、この手で掴み取ることが出来たのだ。
あの存在を。この腕で抱き締めることが出来たのだ。
信頼なんかじゃなくていい。恋愛の真似事でも構わない。
(あなたがいる)
そばで、感じられる場所で呼吸している。
不器用でいて無邪気な笑顔すら見せてくれるようになったのだ。
その奇跡のような現実を、夢にしたくはない。
深くソファーの背に凭れ、目を覆い隠すように腕を当てた。
眉間を深く寄せ、直江は目を閉じた。するとまぶたの裏に浮かび上がる残像。
「高耶さん・・・」
あなたはきっと、俺を許さない。
すべてを知られてしまったら、もう二度とあの笑顔は見られない。
だから嘘をつく。
愛しいあなたに、もっとも酷い嘘を。
分かっているんだ。こんなことは許されることじゃない。誰より正義感の強いあなたは、きっと俺のこの気持ちを理解出来ない。 あなたを得るためなら何だってする。犯罪だろうが何だろうが構ったことじゃない。
(俺は狂人だ)
その狂人に、あなたはもう捕まっている。
あなたは諦めるしかない。永遠に気付かなくても。
永遠に無知なあなたを俺は一生涯かけて愛する。
孤独なあなたのそばに、ずっと、いる。
罪悪感など握り潰してあなたとの未来を見る。過去は一切捨てる。

そう思う一方で、拭えない失う恐怖。
直江は祈るように天を仰いだ。
知らないでいてくれ。永久に。
どうか気付かないでいて・・・。


                        ◆◇◆◇


  祈りは所詮祈りでしかないのか。
  罪を負った人間は断罪されて当然なのだ。
  傲慢なエゴを振りかざして幸福になろうだなんて虫が良すぎる。
  分かっていた。
  そう、分かっていたんだ・・・。


窓から差し込む太陽はジリジリと肌を焼くように暑い。
その窓を背に、一人の青年が長い影を作って佇んでいる。
逆光で表情が上手く読みとれない。
いや、表情はなかった。
その顔は凍り付いていた。
太陽に照らされてなお、その表情が溶けることは容易ではないようだ。
固まったまま動けないのは、青年だけではなかった。
ドアの前に立ち尽くしている男もまた、息を詰めて静止している。
遠くで学生の笑い声が聞こえた。
空間で交わる視線は緊張を解かない。
長い沈黙を破り、ようやく声を発したのは男の方だった。
「いつから・・・、そこにいたんですか」
「・・・・・・」
「なにかご用ですか」
努めて冷静に対応しようとするが、こちらを見据える目線は一縷の誤魔化しもきかないとばかりに追ってくる。
それは息苦しいとさえ思う程だった。
「・・・なにか、聞こえましたか」
「聞こえた」
「・・・・・・」
「・・・美弥が、なんだって・・・?」
下から睨み付けるようなその眼は逃げることを許さない。
力を込め、高耶は逸らさないよう必死に直江を見つめ続けた。
直江は一度目を伏せ、意を決するようにこう言ったのだった。
「中へどうぞ。高耶さん」

高耶は激しく動揺していた。
激しく胸騒ぎがした。
直江の研究室へ踏み入れる足取りは鉛でも付けたかのように重い。
出来たら入りたくなんかない。このまま逃げ出したい。
(なんだっていうんだ・・・)
きつく唇を噛み締める。
「・・・どういうことなんだよ!」
ドアが閉まると同時に、高耶は叫んでいた。
「いま出てったあいつは誰なんだ。いったいなんの話してたんだ。なんで美弥の名前が出てくるんだよ!」
一気に捲し立てた高耶には目を合わせず、直江はゆっくりとソファーに腰を下ろした。
高耶のその台詞で、もはや誤魔化しは一切きかないことを知る。
「直江!」
「いつかは・・・」
足の上で手を組んで、直江は額を埋め、掠れた声を出した。
「いつかは知られると思っていました。・・・覚悟もしていました」
「・・・・・・」
「高耶さん、・・・・・・あなたはどうして私があんな簡単にあなたの告白を受けたのか、考えたことがありますか」
「・・・え・・・」
「ほぼ見ず知らずの、週に一度講義を受けに来る名も知らない学生の、しかも男の・・・、告白を何故受けたのか」
高耶は何も言えずに黙り込んでしまう。それは高耶の最大の疑問の一つだった。
顔を上げ高耶に向き直った直江は、きっぱりと言った。
「知っていたからですよ」
「え・・・?」
「私はあなたを、知っていたんです。そう、あなたがこの大学に入学してくるずっと前から」
高耶は大きく目を見張った。そんなことは初耳だった。
「初めての出会いを、きっとあなたは覚えちゃいない。けれど私にとってそれは全てが覆されたかのような衝撃だった。その瞬間から、私の生活には常にあなたがいた。名前も歳も、どこに住んでいるのかさえ知らないあなたのことで、一日中頭が一杯だった」
「・・・な・・・に、言って・・・」
「やがて気が付いた。この感情が単なる好奇心でも興味本位でもなく、恋なんだ、と」
「・・・・・・」
「私はあなたに恋している。この気持ちは誤魔化しようがなかった。やがて浅ましい欲望に変わっても、止める術がなかった」
「ちょっと、待てよ・・・っ!おまえ、なに言ってるんだ!なにわけ分かんないこと・・・っ」
見たこともない直江の姿に、高耶は訳が分からずに叫んだ。本能的な怯えから出た叫びだった。
この男は一体なにを言ってる?なんの話をしてるんだ!?
「あなたの居場所が知れた時は本当に嬉しかった。こんなに近くに居たなんて。どうして気づかなかったのか。そしてようやく再びあなたに会えた。あの時と寸分の違いもないあなたがそこにいた。こちらには一切気付かないあなたを、それでも俺は見つめ続けた。報われなくても構わなかった。ただ、こうしてあなたの姿を見ていられるだけで良かった」
「直江・・・っ」
「だけど欲望は日を追う毎に深くなる。あなたの名前を知って、歳を知って、家庭環境を知って、その思いは深くなる一方だった。あなたを支えてあげたかった。もうひとりで泣いて欲しくなかった。俺のこの腕で、抱き締めてあげたかった・・・!」
思いを吐き出すように直江は吐露する。
呆然と、高耶は立ち尽くした。
この男は誰だ・・・?こんな男をオレは知らない。オレの知っている直江じゃない。
頭を抱え、呻くようなその叫びは高耶には理解できない。
初めて見るその姿は、いつもの直江とはあまりにもかけ離れすぎている。別人を見るように高耶は直江を見下ろした。
「・・・膨れ上がった欲望の行き場は、もうたったひとつしかなかった。あなたに俺を知って貰いたかった。見ているだけでは、もう・・・満足できなかったんです」
「・・・・・・」
「あなたと話したかった。あなたに触れたかった。あなたをもっと、知りたかった・・・」
「直江・・・」
項垂れる男の声には、どこか哀願が篭もっていた。
だが高耶にはそれだけ想われている相手がこの自分だなどと、到底思えない。
真実味がなさすぎて、誰か別の人間に対する告白を聞いている心地だった。
驚愕は次第に疑念に変わる。
固く拳を作り、直江は吐き出すように言った。
「あなたに近づけるならなんだって良かった。知り合えるチャンスが欲しかった。それにはどんな方法も厭わない。より印象づけ、いい立場で好感を持てる相手――、それが理想でした。そのためにはどうしたらいいのか。考えて、考えて・・・出てきたのが恩を与えることだったんです。そうすればあなたは私を拒めない。なにも考えず、好意を持って接してくれると思った。だから、」
そこで区切り、直江は戸口に突っ立っている高耶へきつい視線を投げた。
「だからあの学生の単位を盾に、交換条件を持ちかけたんです。彼はそういうことにかけてはだらしがないので有名でしたからね。利用するにはちょうど良かった」
「な・・・」
「私からの条件はひとつ。仰木美弥という少女を強姦すること」
「――――!」
高耶ははち切れるほど目を見開いた。
「ただし最後まで至らないうちに止めに入るからそのつもりでいろ、と約束させました。私の目的はあなたの妹を『強姦』させることではなく、それを救った『恩人だと思わせる』ことにあったんです」
ガタン!と音を立てて高耶は背後のドアにぶつかった。
ふらついた足はまともに立っていられず、込み上げてくる震えを止めることが出来ない。
頭がグラグラする。
激しく殴られたような衝撃に、頭が割れそうに痛む。
見開いた瞳は瞬きを忘れ、唇が変に戦慄いた。
直江はそんな高耶に気付かぬフリをして、
「けれどあなたの妹は、助けた私のことは一切覚えていなかった。あなたと私を繋いでくれる大事な証人だったのに。・・・でもそれを悔やむより、私は自分がやらかしたことの重大さに戦慄し・・・」
ここで不自然に言葉が途切れた。
ソファーに座っていた直江の身体が大きく傾ぐ。その口端からは血が滲んでいた。
高耶は肩で荒く息を付いている。固めた拳は痛々しげに赤く腫れていた。
直江はゆっくりと首を巡らし、殴られて切れた口端を拭いもせずに高耶を見つめた。
高耶の身体は全身が細かく震えていた。
恐怖からではない。
どうしようもない怒りからだった。
「騙したのか!」
するどい悲鳴のような叫びが響いた。
「ずっとオレを騙してたのか!」
「・・・・・・」
「何も知らない顔をして、内心では無様なオレを見て嘲笑ってたのか!」
「それは違います」
「本当の犯人はやっぱりおまえだったのか。美弥を、オレのたったひとりの妹を、あんな目に・・・それも、作為的に、だと・・・?―――ふざけるな!ふざけるなこの裏切り者ォ!」
高耶は興奮して直江に掴みかかった。
目の端に涙を滲ませ、なおも絶叫する。
「おまえじゃないって信じてたのに!信じてたのに!!なんでなんだ!なんであんなことしたんだ!美弥に・・・、なんで美弥に・・・おまえが!」
怒りで我を忘れ、高耶は激しくかぶりを振る。
唐突に聞かされた真実の重さについていけずに混乱したまま、直江の胸ぐらをぶるぶる震えながら掴み上げる。
錯乱したように、高耶は悲鳴を上げた。
「信じてたのに―――!」
・・・・・・そう、あなたは俺を信じていた。
だからこそ、俺はあなたを捕まえたと思った。
愛しいこの存在を、ようやくこの腕に―――。
「愛しているんです」
掴み上げられた体勢のまま、直江が静かに声を発した。
「あなたを愛しているんです。他にはなにもいらなかった。ただ、あなただけが欲しかった」
「ふ・・・ざけんな!」
「そのためには誰を犠牲にしても良かった!あなたが大事にしていた妹さえ踏み台に出来た。あなたの願うささやかな幸せを潰してさえ、俺はあなたが欲しかった!」
「おまえはおかしい!」
涙を弾き飛ばして高耶は直江を睨み付けた。
「そんなの愛じゃない!オレは認めない!」
「そう、俺はおかしい。とっくに狂っているんですよ。でもそうさせたのはあなただ」
「・・・・・・ッ」
「すべてはあなたがいるから。俺の目の前に。俺のすぐそばに!愛しくて死にそうなんだ!否定されてもどうしようもない。エゴを振りかざしても、あなたの幸せを願っても、最後に残った想いはこれだけだったんだ・・・!」
きつく抱きすくめられて、高耶は身動き出来なくなった。一瞬激しい眩暈に捕らわれて、全身の力が抜けてしまう。
肩口に顔を埋めてくる直江を感じながら、目からとどめなく涙が流れた。
激しすぎる直江の想いに押し潰されそうだ。
高耶は抗おうと、力の抜けた腕をなんとか動かして、直江のスーツを掴む。
必死に首を振った。
「はなし、てくれ・・・」
「高耶さん」
「たのむから、放して・・・!」
力いっぱい、直江を突き飛ばす。
そのまま振り返らずに高耶は部屋を飛び出した。
バタン、と音を立ててドアが閉じられる。
直江は力を失って床に手を付いた。
ソファーを背に、ずるずると床に倒れていく。
乱れた髪が頬にかかり、その表情を隠す。
振り払われ熱を持った手を、ゆっくりと持ち上げ、直江は顔を覆った。

だんだんと遠ざかっていく足跡のみが、鼓膜を揺らし、やがて消えていった。








『泡沫の恋』《9》  END

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