泡沫の恋 《7》
 


その日は前日までの雨模様が嘘のように晴れ渡っていた。
連日続いた雨はようやく上がり、陰鬱な気分が今日の晴天で一気に解消されるようだ。
抜けるような青空が広がる。
大学までの坂を上る学生たちの表情も、幾らか晴れ晴れとして、騒がしく雑談しながらそれぞれがそれぞれの講義を受けるために教室へ向かう。
その中に千秋修平の姿があった。
早い足取りで長くはない坂を上りきり、大学の入り口である門をくぐると、急に騒然とした空気が増す。
時刻はあと五分で一限目が始まる頃である。慌ただしく小走りで各教室に向かう学生でそこは幾分混雑していた。
だが千秋は一限目に授業が入っているにも関わらず、教室へは向かわずに、そんな学生たちの合間をかいくぐって真っ直ぐに研究室の並ぶ建物へと歩を進めていた。
その中でも一番奥の、一つだけ塔ように突き出した高い棟内の入り口へ入った千秋は、すぐ脇の狭いエレベーターに乗り込んだ。
8階へのボタンを押して、無人のエレベーターの壁に凭れると、彼は軽く吐息した。
胸ポケットに入れていた眼鏡をかけ、切り替わっていく表示を睨みながら、これから訪れる人物の顔を半ば疎ましげに脳裏に思い浮かべる。
(いったいどういうつもりなんだ・・・)
千秋には全く理解出来なかった。いや、理解するには自分は何も知らなさ過ぎる。
このままではどうしても納得できない。
ハッキリした答えを聞かない限り、気になって夜も眠れないのだ。
(答えてもらうぜ。直江助教授さんよ)


扉の前のプレートを見上げ、「直江」の文字を確認すると、千秋は軽く二回ノックした。
直江がこの時間フリーなのはちゃんと調査済みだ。
しかも時間に律儀な男で、毎朝誰よりも早く研究室に篭もっているという噂なので今日もここにいるはずだ。
予想を裏切らず、直ぐに中から応ずる声がした。
「失礼します」
一応そう言って千秋は幾分重いドアを開いた。
室内は日の光が明るく差し込んでおり、蛍光灯を必要としないほど明るかった。
部屋の左端に大きめの机があって、様々な資料が雑然と積まれている。隣に置いてあるノートパソコンは電源が入ったままで長い間放置されたのか、スクリーンセイバーに切り替わっていた。
その手前にはソファーと小さな机。隅にある本棚に入り切らなくなった分厚い本が、そこにまで散乱している。
ざっと視線を巡らせても直江の姿は見あたらない。
変に思っていると、右側の壁伝いに半開きのドアがあった。隣と繋がっているらしいそのドアの奥から、再び直江の声が聞こえてきた。
「いま手が離せないんだ。悪いがここまで来てくれないか」
ハイハイ、と小さく口の中で答え、千秋はそのドアを開いた。
そこの部屋も隣とほぼ似たような内装で変わり映えしない。積まれている何か訳の分からない資料がより多いくらいだ。見ているだけで頭の痛くなるような光景に嘆息しつつ、左側の机に座っている男の後ろ姿を見つけた。
こちらに背を向けたまま、なにやら調べものと格闘しているらしい。
音を立ててドアを閉めると、ようやく直江はこちらに向き直った。
途端、直江は軽く驚いた顔をした。
「なんだ。お前か千秋」
「何だとはご挨拶だな。俺が直々に出向いてやったんだから、茶でも出して歓迎しろよ」
「呼んだ覚えはないが?」
「別に呼ばれた記憶はねーよ」
直江は片手に持っていた資料のファイルを閉じ、立ち上がると千秋にソファーへ座るよう促した。
「まあいい。少し休憩しようと思っていたところだったしな」
冷めた紙コップのコーヒーを飲み干しゴミ箱へ投げ入れると、直江も向かいのソファーへ腰を下ろした。
千秋が座ったのとほぼ同時に煙草を取り出すと、ライターで火を点ける。
長い溜息のような紫煙が天井へ上っていった。
「で?お前が私になんの用なんだ?千秋」
「・・・・・・」
「こんなところまでわざわざ来るなんて珍しい」
薄く笑いながら千秋に先を促す。その笑みに気分を害したのか、千秋はドッカリとふんぞり返って、不機嫌そうに口を開いた。
「長々とだべる気なんかねーから簡潔に言わしてもらう。仰木高耶ってやつ、知ってるよな?」
「・・・・・・」
直江は表情を変えず、そっと煙草の煙を吸い込んだ。
「あんたの授業受けに来てるただの生徒なら知らなくても無理はない。一日何百人も講義聞きに来る生徒の名前なんて覚えられなくて当然だ。でも、仰木高耶だけは知ってるだろう。知らないなんて言わせねーぜ」
「・・・彼がなんだ?」
直江がこちらに目をくれたのを確認し、千秋は言った。
「一週間前くらいから、あんたの女遊びがキッパリ無くなったって綾子が不思議がってたぜ。やっと婚約者一筋になったのかって関心してた」
「・・・簡潔に言うんだろう。お前らしくもない。前置きはいい。なにが聞きたい?」
ややトーンを落とした声音を向けられ、千秋は直江を軽く睨んだ。
眇められた双眸は、千秋の次の言葉をすでに予想していたらしく、ちっとも慌てた気配を見せないのが憎たらしい。まあ、今に始まったことではないが。
「じゃあ聞くがな。・・・どういうつもりだ?」
「どう、とは?」
「どういうつもりで高耶とつき合ってんだ」
語尾を強めてそう問えば、直江は銜え煙草のまま微かに笑った。
「どういうつもり?分からないことを聞く奴だな。そんなことを知ってどうする?お前になんの関係があるんだ」
「高耶は俺の幼なじみだ。ついでに親友ってヤツさ。・・・そんなこたあんたはとっくに知ってんだろが」
「だからなんだ?お前に俺と彼とのことに口出す権利はないだろう」
「いいや、あるね。あんたがどういうつもりで高耶の告白を受け入れたのかなんてことは、今更もうどうでもいい。前までは全くのノンケだったあんたが何を血迷って男とつき合ってんのかなんて知りたくもねぇ。ただの遊びならそれ相応の覚悟がいるだろうがな。そこまでは大した問題じゃないと思ってた。でも」
「・・・・・・」
直江は無表情で灰皿に煙草を押しつけた。揉み消された火がか細い煙を燻らせ沈黙する。
千秋は直江を探るように見据え、
「・・・なにが目的で、あいつにあんなこと言ったりしたんだ?」
「何もかもお見通しってわけか。・・・ずいぶんあの人に信頼されているんだな、千秋」
「少なくともあんたよりかはな」
「それは結構なことだ。信頼暑い生徒に育ってなによりだな」
「ふざけてんじゃねぇ。質問に答えろよ」
千秋の視線が真っ直ぐに直江を射る。
直江は溜息をついた。
「目的なんてなにもない。あるとしたら、それは彼に俺の本心を知ってもらいたかったからだ」
「なに・・・?」
「お前は俺が何か企んであの人に告白したんだと思っているようだが・・・、そんなものはありはしない」
キッパリと告げる直江に、千秋は大きく目を瞠った。
「あの人に言った言葉に嘘はひとつもない。俺は彼を本気で愛している」
「!」
決定打だった。
まさか直江の口からそんな言葉を聞くなんて思いもしていなかった千秋はそのまま固まってしまう。
いや、これは千秋の推測通りの答えだった。
信じられない思いで、とても受け入れられなかった推測だった。
それが、まさか本当になるなんて。
「まさか・・・、あいつ・・・・・・なの、か?」
掠れた声で、千秋は問うた。
「・・・・・・」
答えはない。堪らなくなって叫んだ。
「・・・そうなのか!? 高耶なのか、直江!」
「もういいだろう。仕事の邪魔だ。学生は学生らしく、サボらず授業に出席しろ」
そのまま半ば追い出される形で直江の研究室を出た千秋は呆然とその場に佇んだ。
「・・・嘘だろ・・・?」
信じがたい事実に声も出ない。驚愕に見開かれた目は床の一点を凝視したまま動かなかった。
(じゃあ、もしかしたらあれも・・・・・・)
嫌な予感は外れてなんていなかった。まさかこんなところに真実が隠されていたなんて。
「冗談きついぜ。・・・どうすんだ、高耶・・・」
ただの復讐で終わるわけない。
どうやらおまえはとんでもない奴に、嘘の告白をしてしまったらしい。


◆◇◆◇


憂鬱だった。
綺麗に晴れた晴天とは裏腹に、高耶の心は荒れ模様だった。
はあ、と今日何度目かになる深い溜息がまた、口から零れる。
黒板の前で熱弁している禿げた教授の話は右から左状態で、まったく頭に入っていない。
頬杖をつき、シャーペンを弄びながら、高耶は昨夜のことを思い出していた。
あの後気を散らそうとシャワーを浴びたが夜はろくに眠れず、頭のなかでぐるぐると回る直江の台詞や唇の感触を思い出すたび、じっとしていられなくて、布団の中で何度も寝返りを打った。結局今日は睡眠不足である。
今だってそうだ。またあの感触が蘇ってきて、瞬時に頬が紅潮する。高耶は思わず机に突っ伏した。
思い出しただけで・・・恥ずかしくて憤死しそうだ。
(だって・・・あ、あんな)
昨日はびっくりして驚きの方が大きくて大して意識していなかったのだが、高耶にとってはあれがファーストキスであり、あんな濃厚で頭がボーっとなって何が何だか分からなくなるようなあれが、キスだなんて初めて知ったのだ。
絡んだ舌の柔らかい感触が、篭もる吐息の熱さが、生々しく思い出せる。
伏せたまま高耶は頭を抱え、ぎゅっと目を閉じた。
心拍数は上がる一方で、どうしたらいいのか分からなくなる。
消そうと思っても、考えることは直江のことばかりで、ついに自分はおかしくなってしまったんじゃないかと心配になってしまう。
こんなことばっかり考えて。いいように振り回されて。自分が情けない。
でも。
強く抱き締められて、激しく口づけられた時に感じたあの感覚は―――陶酔感、じゃなかっただろうか。
縋り付いたときに指に感じた、湿ったスーツの感触に切なくなった。
切なくなって、縋りついた。
そのまま流されてしまっても、いいとさえ・・・思ったのだ。そう、確かに。
そんなに自分は温もりに飢えていたんだろうか。
人に依存することの安堵に、直江を頼ったんだろうか。
「サイ・・・アクだ・・・」
最低だ。こんなに弱い人間だったなんて。しかも相手は美弥を襲った犯人かもしれないっていうのに。
(・・・一体何を考えてるんだ、オレは!)
伏せたまま思考を断ち切るように首を振る。
きつく唇を噛んだ。
「・・・ちくしょう」
鼻の奥がツンとして、目尻に涙が浮かんでくる。昨日と一緒だ。なんで涙なんか出てくるんだろう。
悲しくなんてないはずのに。
なのになんで、こんなに胸が痛い・・・。

なんで・・・、おまえなんだ直江。
復讐する相手がおまえじゃなかったら、おまえを騙したりしないで済んだのに。
こんなに苦しくならずに済んだのに。
考えずにはいられない。
高耶は強く瞼を閉じた。

なんでおまえなんだ。
どうして・・・!


◇◆◇◆


重い足取りでようやく家に辿り着くと、自宅の明かりはなく真っ暗だった。
いつもは美弥が先に帰っていて、今頃は夕飯の支度をしているはずなのに。
今日は直江とは会わなかった。
直江の講義は入っていなかったため、互いが連絡を取り合わなければ広い大学内で偶然会う確率は少ない。だが今日はさすがに連絡は取らなかった。
向こうも一応気を使っているのだろうか。
高耶は部屋に入り、電気をつけ、居間の畳の上に鞄を放り投げた。その場に座り込んで、小さな卓袱台に肘をつく。
そのままボーっとしていると、なんだか無性に腹が空いてきた。
「遅せーなぁ・・・美弥のやつ」

美弥が帰ってきたのは、それからさらに二時間が経過した頃だった。
さすがに心配になって、その辺を探しに行こうと上着を手にドアを開いたところで、帰宅した美弥と出くわした。
「ずいぶん遅かったじゃねーか。また友達の家で遊んでたのか?」
「お兄ちゃん・・・」
か細い声で見上げてきた美弥は、目を真っ赤にして急に泣き出してしまった。
「美弥!?いったいどうしたんだ」
驚いて高耶は美弥の華奢な肩を掴む。
嫌な予感がして思わず声を荒げた。
「何かあったのか?まさか、また誰かに・・・!」
美弥の身なりを確かめて、最悪の事態にはなっていないことを確認すると、中に入らせ、改めてまた優しく問いかけた。
「どうした?誰かに嫌なことでも言われたのか?」
高耶の優しい目をじっと覗き込み、気を落ち着けると、美弥はようやく話し出した。
「違うの・・・。今日・・・学校の帰りに、友達と公園を歩いてて・・・」
「公園を?もうあそこは通るなって言ったろ?」
「まどかも一緒だったから平気だと思ったの。あそこ通った方が近いし・・・」
「・・・それで?」
「・・・・・・」
言い淀むように、美弥は口を閉ざしてしまった。
また、涙が大きな瞳から零れ出す。
「美弥」
高耶は来ていたTシャツの裾を捲り上げ、美弥の涙を拭ってやった。
「それでどうしたんだ?大丈夫だから言ってみろ」
「・・・うん」
美弥は鼻を啜ってようやくこくんと頷いた。
「だいぶ日が暮れてきてて、公園に全然人がいなくって、気味悪いねって話してたら・・・、突然植え込みのところから人が飛び出してきたの」
「なに?」
「暗かったし、初めは何がなんだか分からなくて。そしたらその人が・・・、いきなりまどかを・・・っ!」
また涙を溜めて、美弥は悲鳴を上げた。
「あの時と、同じだったの。・・・同じ男の人だった。私をあの夜襲ってきた人だったの!」
「!」
高耶は大きく目を見張った。頭が真っ白になった。
息が詰まり、身体が細かく震えてくる。
「・・・まちがい・・・ないのか・・・?」
ようやく発した声は掠れていた。
美弥が深く頷くのを見て、絶望がこみ上げる。
「それで・・・、まどかちゃんは?無事なのか?」
「うん、平気。植え込みに連れ込まれそうになったところを美弥が鞄でその人を思いっきり殴ってやったの。そのまま逃げたら追いかけてこなかったから」
「そうか・・・」
美弥と友達の無事を確認し、ホッと胸を撫で下ろす。そのあとショックの残っている友達を家まで送っていたので、こんなに遅くなってしまったという。
とりあえず二人とも無事で良かった。無事で・・・。
そのまま放心したように、高耶は座り込んだ。
美弥たちが、また、襲われた。
意識が真っ暗になる。
力が入らず、もうショックなのか怒りなのかすら分からない。
唯一、浮かび上がる男の姿を、高耶は呆然と考える。
感じるのは深い絶望感だけだった。
その時、不意に、美弥がこう言ったのである。
「あの人にお礼言わなきゃ。あの夜美弥を助けてくれた男の人に」
「え・・・?」
「さっき、襲ってきた人の顔を見て思い出したの。怖かったけど、大切なこと思い出したの。あの夜美弥が無事でいられたのは、その時スーツ着た男の人が助けに来てくれたからなの」
「スーツ来た男の人・・・?」
そんなことは初耳だった。
「すぐに気を失っちゃって、なんのお礼も言えなくって。でも、これでやっと言えるよ」
「待てよ美弥、その人が誰だかおまえ、知ってんのか?」
「うん。お兄ちゃんも見たでしょう?退院した日に、交差点の向こう側にいた濃紺のスーツ着た背の高い男の人」
「 ―――― 」
息が止まる。
心臓が、一瞬止まった。
はち切れるくらい見開いた瞳は、あどけない美弥の姿を茫然と映しだした。
「あの時のひとだよ。美弥を助けてくれたひと。だからお礼しに行かなくちゃ。確かあの時、お兄ちゃんの通ってる大学に入っていったよね?」
「・・・・・・・・・」
「だからもしかしたら、あの大学の人かもしれないって思って」
「・・・・・・・・・」
「お兄ちゃん?・・・ど、どうしたの、お兄ちゃん!?」
美弥が戸惑った声を上げた。何事かと、答えない兄を心配そうにのぞき込んでくる。

硬直した高耶の瞳からは、無意識に涙があふれ出していた。








『泡沫の恋』《7》  END

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