泡沫の恋 《6》
 


「まだ止みませんねぇ」
「ああ、梅雨はまだ先だってのによく降るよな」
車の振動音に身を委せながら、相変わらずの雨模様にうんざりする。
春の陽気はどこへやら。今日は随分風がつめたくて、薄着な高耶は小さく身震いし、シートに深く凭れた。車内の暖かさに一息つく。
最近は曖昧な気候が続いていて、日中は初夏並の日もあったかと思えば、今日のように急に気温の下がる日もあった。こういう季節は着ていく服に大変困る。今日こそあったかいだろうと踏んで薄着にしてしまったことを高耶は後悔した。せめて上着くらい持ってくれば良かった。
夕方になって一層冷えてきたんじゃないだろうか。ずっと室温の保たれた図書館にいたから余計そう感じてしまう。
(まぁ・・・、こっから車だからいいんだけど)
肘をついて外を眺め、ちょっぴり直江に感謝しながら、高耶は今日も高い店に連れて行ってくれるんだろうかと思っていると、ふとした疑問が沸いてきた。
「なぁ、直江」
「なんですか?」
「おまえってさ、いつもこうやって外食してるわけ?」
「ええ、まぁ大体はそうですね。自分で作るのは面倒なので。家で食事をとることはほとんどないです」
「誰か作ってくんないの?」
そう聞いたらクスッと笑われた。
「誰かって、例えば?」
「だからァ、・・・その・・・・・・彼女・・・、とか?」
言ってしまってから、あ、と気づいて直江を見上げる。つき合っている本人が言う台詞じゃないかもしれない。
だが直江は別段気にした風でもなく、
「確かに以前は、頼んでもいないのに何かと世話を焼きに来てくれる女性は何人かいましたね。食事はもちろん、掃除洗濯までこっちが呆れるくらい」
「・・・あー、そんな感じ」
「けれどあなたとお付き合いするようになってからは、作りに来てもらう必要もないですから。こうやってあなたと食事に行く方が何倍も楽しいですし」
前を向いたまま、直江は穏やかに告げた。
高耶は照れたんだろうか、居心地悪そうにそっぽを向く。そんな高耶に直江は苦笑いで、
「・・・それとも、あなたが作りに来てくれますか?」
そう言われて高耶は一瞬目を丸くした。
それから不意に黙り込んでしまう。訝しんだ直江が声をかけようとしたら、高耶は窺うような眼差しで、
「・・・作りに、行ってやったら嬉しいか?」
と問うてきた。
思ってもみなかったその台詞に直江は軽く瞠目した。
「え・・・?ええ、それはもちろんですよ。あなたの手料理が食べられるなんて考えただけで」
そう聞いて、高耶は一度俯き、そっと顔を上げて直江を見た。そして不器用な笑顔を浮かべてみせたのである。
「・・・そっか。まぁ、暇なときなら作りに行ってやってもいいぜ。オレこう見えても結構料理得意なんだ」
「!」
直江は驚いた。
高耶が自分にこんな笑顔を向けたのは初めてだったのだ。
「あ、でもホントにたまにだぜ。今日は美弥が友達の家に遊びに行ってっからいいけど、そう何日もあいつを一人にできねーし」
「十分ですよ。・・・ありがとうございます、高耶さん」
直江は心いっぱいに温かい喜びが広がっていくのを感じた。純粋な感動だった。
まさか冗談で言ったことが本当になるなんて。
高耶の心遣いが嬉しくて、胸が熱くなる。知らず唇が綻んだ。
本当に自分は高耶が好きなのだと強く思った。


誰かを守らなければいけない、という気負う気持ちが先行している時には気づきもしなかった。
その対象が大切な存在であればあるほど。
常に心にバリアを張り、自己防衛に必死になっていた時には気づきもしなかった。
ぬくもりに、優しさに。
飢えていたのだと。
精神的に張りつめた日々を過ごしてきた高耶にとって、頼れることは、与えられる優しさは奇跡のようなものだった。自らそれを望んだりは決してしなかったせいかもしれない。
少しの優しさで、同情ではない真実を見たら、真っ直ぐに心が反応を返す。
無意識にではあるが、ひたむきに心に浸透を許す。
直江の優しさは胸に染み渡る安らぎのようなものだった。
だが今の高耶がそれを認めることは不可能だった。また、思いもしなかった。
まさか自分が直江に少しでも心を開いているだなんて。
そんな事実、気づくわけにはいかなかったのだ。


「あ、ここでいい」
食事を終え、いつものように公園前まで来た時、お約束のように発せられた高耶のその台詞を聞いて、短く嘆息した直江は静かに車を停止させた。
夕方よりは少しはましになったものの、まだ雨は降り続いている。
じゃあ、と言って車を降りようとする高耶の手を、直江は発止と掴んだ。
「待ってください」
「・・・直江?」
「高耶さん、傘は持っているんですか?」
「カサ?当たり前だろ、今朝から雨だったんだから・・・」
そう言って、ハタ、とした。
自分の身の回りを見て確認しても、どこにも傘の存在が無いことを知る。
「あーーー!そういえば図書館に忘れてきた!」
「やっぱり・・・」
「だっておまえが車で迎えにくるから・・・!」
ついうっかり傘のことなど忘れ去っていたのだ。図書館の傘立てに置きっぱなしにしてきてしまった。
「・・・ああもう、別にいいや。どうせ安物だし。じゃ、またな」
簡潔に言って、つれなく車を降りようとする高耶を、直江は再び慌てて止めた。
「待ちなさい!ここから濡れて帰るつもりですか?」
「そうだけど?」
「そう、って高耶さん・・・。風邪を引きますよ。どうせだし家まで送ります」
「へーきだって。そんなヤワじゃねーよ。すぐそこだし」
ケロリと言う高耶に、直江は肩を落とした。最近の若者は皆こんなもんなのだろうかと年寄り臭いことを考えながら、だがここで高耶を濡れ鼠にするわけにもいかない。
「駄目ですよ。こんな雨の中じゃ例えどれほど近くてもずぶ濡れになってしまう」
「すぐ着替えりゃ大丈夫だよ」
頑として譲らない高耶に、浅いため息が洩れる。
「高耶さん・・・、どうしてそんなに嫌がるんですか?」
「え・・・」
「そんなに私に自宅を教えたくないですか」
じと、とした目でそう問われ、高耶は内心激しく狼狽した。
家の場所を知られたくないと言うよりは、美弥と直江を鉢合わせさせてしまうのが怖いのだ。
美弥がどんな反応を示すのか。考えただけで苦しくなる。
そうしたら直江にも全て知られてしまう。いままでのことは、全部嘘だったと。
今のこの関係が、壊れてしまうかもしれない。
高耶は無意識に強く手を握りしめる。
(それは・・・・・・ダメ・・・だ。ぜったいに)
なぜダメなのか。
なぜそう思うのか、は、今は考えない。
「・・・そんなんじゃねーよ。ただ・・・」
「ただ?」
「た・・・だ・・・」
言葉に詰まる。なんて言い訳したらいいのか判らない。
胸をぎゅっと鷲掴みされるような心地に捕らわれて、息苦しさでいっぱいになる。
いつかはこの話題になることは予想できていた筈なのに。
俯いて黙り込んでしまった高耶に、直江は問い詰めようとした自分を瞬時に悔いた。
以前から薄々高耶が何か隠しているのではないかとは思っていたのだが、まだ尋ねるには早かったらしい。
無理して問い詰めても仕方ないし、言いたくないことだってあるだろう。
「高耶さん、言いたくないなら無理しないで。・・・なにか訳があるのでしょう?」
俯いている高耶は悲壮感すら漂う。眉間に深い皺を寄せ、ぎゅっと目を伏せている。
罪悪感を隠せない高耶の不器用さは、直江を騙しているということに拍車をかけ、すでに仮面が剥がれ落ちようとしていた。
そんな高耶を、直江は一筋に見つめる。
・・・なにをその胸の内に隠しているのか。
「高耶さん・・・?」
自分を緩慢な仕種で見上げて来た高耶の表情に、直江は一瞬息を飲んだ。
一体どうしたというのか。
(どうしてそんな顔をする・・・?)
怯えたような、苦痛を感じているような、何かを訴えているような。真っ直ぐに向けられた双眸は酷く複雑な色合いを醸している。そんな表情を、高耶はしていた。
高耶はまた俯いて、ポツリと言葉を零した。
「・・・おまえが、嫌なわけじゃないんだ。そんなこと思ってない。・・・でも」
妹を、見られたくない。見せたく、ない。
「・・・・・・・・・」
唇を堅く引き結ぶ高耶の表情は、どこか儚げに映って、直江は自分の心に施した留め具を一瞬で緩められたような錯覚を覚えた。
堅く絞めた筈の錆びた留め金。
それが、緩められていく。
笑顔を見せたと思ったら、酷く切ない表情を晒す。そんな高耶の不安定さに今までとは違った感情が沸いてくる。
「そんな顔で・・・、私を見ないでください」
緩めたのは高耶だと思った。
高耶は何を言われたのか判らずに直江を見上げた。
「そんな無防備な表情をしないで。・・・私はそんなに出来た人間じゃない」
「直江・・・?」
「あなたを・・・、愛しているんです」
細められた鳶色の瞳に、高耶の見開いた瞳が重なる。
視線に捕らわれた心地がして、高耶は身動きできなくなった。
スローモーションのように伸びてきた手が高耶の頬に触れる。
固まったまま動かない高耶の頬を、何度か優しく撫でて、微かな温もりを伝える。
「好きです。高耶さん」
指を滑らせ、顎を捕らえると、親指で唇を軽くなぞってみた。
幾らか肉厚とした形の良い唇に、吸い寄せられるように、直江は顔を近づける。
高耶は逃げない。
瞳を瞠ったまま身動きしない。
「愛しています」
そう囁いて、直江は静かに唇を重ねた。
瞬間ピクンと高耶が震えたが、構わず包み込むように覆う。
「・・・ッ」
我に返って抗いを見せた高耶の両手を掴み、身体ごと抱きしめる。
一切の動きを封じて、直江は覆い被さるように接吻を深めた。
細かく震える高耶の唇をゆるく舐め、微かに開いた隙間に舌を滑り込ませる。
「ん・・・っ」
濡れたものが絡みついてくる感触に、高耶は堅く目をつぶった。
逃げても直ぐに捕まって、痺れた舌をきつく吸われる。
口腔内を隅々まで貪られる感覚に、視界の先がぼうっと揺れた。
わけが分からなくなる。これは何なのか。
「・・・・・・、ッ・・・」
朦朧と霞む脳に思考が追い遣られる。口吻に全てを持って行かれる。
ぼやけた視界に、糸のような雨がヘッドライトに照らし出され、銀色に輝いている様が映った。縋るように見つめ、柔く霞んでいく。
熱く、甘く絡む舌。
もう、何も考えられない。
湿ったスーツの肩口に縋り付き、高耶は四肢から力を抜いた。

濃厚すぎる口付けからようやく解放されると、高耶はガクリとシートに崩れ落ちた。
上気した頬は熱を持ち、ぼんやりした瞳は力を無くして潤んでいる。
「高耶さん・・・?大丈夫ですか?」
耳元で、優しげな吐息が擽った。
熱を持ったその声音に思わずカッとなって、高耶は次の瞬間目一杯直江を突き飛ばしていた。
そのままドアを開いて脇目も振らず、逃げるように雨の降りしきる中へ走り出す。
「・・・!・・・高耶さん!」
力の入らない両脚を叱咤し、雨の降りしきる中をひたすら走る。びしょ濡れになることなど一切構っていられない。
直江は追いかけてはこなかった。
息を荒くしてようやく家に辿り着き、ぎこちない手で鍵を差し込む。
中に入って扉を閉め、濡れて滴る髪や服もそのままに自室へ向かう。
どうやら美弥はまだ帰ってきていないようだ。
できたらそのまま友達の家に泊まってきて欲しい。
美弥の顔なんて、今は見れそうもない―――。
高耶は暗い室内へ入ると、電気をつけないままベッドにドサッと倒れ込んだ。
シーツが滴る雫を吸って、幾つも染みを作る。
胸が苦しい。
バクバクいって、呼吸すらままならない。
眉を寄せ、堅く目を瞑った。
荒い息が、まだ熱を持っているように熱い。
冷たい雨に打たれたくせに、ちっとも冷めやしない。
高耶は両手で顔を覆った。
自分は直江を甘く見ていた。
直江の想いを軽んじていたのだ。
そうとしか思えない。
だってこんなこと―――、考えつきもしなかったんだ。
丸くなって蹲りながら、高耶は自分の迂闊さに、単純さに唇を噛んだ。
直江は自分の保護者じゃない。
錯覚してしまいそうになるほど温かいあの包むような優しさは、同情でもなんでもない。恋愛対象として、だからこその産物だった。
あんなに愛の言葉を囁かれてなお、高耶は気づかないフリをしていた。優しい関係のままでいられたら、高耶にはそれが安らぎになりつつあった。
甘えていた。報復の意味すら忘れてしまいそうになるほど。
寂しさ故に、あの優しさに流された―――。
だけどそれは直江の持つ感情とは意味合いが違う。そう信じている。だからこそ、見ないようにしていたのに。向き合わないようにしていたのに。
「・・・どぉして・・・・・・くれんだよ・・・・・・」
もう、自分の気持ちさえ判断がつかない。
簡単にキスを許してしまった理由も。
憎むことが難しくなっている胸の内も。
高耶は胸元をきつく掴んだ。
罪悪感に引き裂かれそうになる。
応えることなんて、出来るはずもないのに・・・。

高耶は自分の唇を、直江にされたようになぞってみた。
・・・熱い。
初めての感触は、ただ熱い想いだけを真っ直ぐに伝えてきた。
「・・・直・・・江・・・」
視界が霞む。
なぜか泣きたい気持ちになって、枕に顔を擦り付ける。
シーツを握りしめた指先は、知らず微かに震えていた。





『泡沫の恋』《6》  END

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