泡沫の恋 《5》
 


「高耶さん!」

真下から聞こえたと思った直江の声が、次の瞬間には耳元で響いてきて、高耶は驚いて目を開けた。
すると至近距離で直江の瞳にぶつかる。高耶はまた驚いた。
「直・・・・・・江・・・?」
「高耶さん・・・。大丈夫ですか?」
「なんで・・・」
自分は階段から足を滑らせて落ちたはず。それなのにどうして無様に転がることもなく、直江の腕の中に・・・。そこまで考えて無駄だと分かる。簡単だ。自分が倒れる寸前に直江が受け止めてくれたのだ。
衝撃でバランスを崩したらしく、共に床に膝を付いているがどこにも怪我はない。
階段の手摺りを掴んで立ち上がった直江は高耶に手を伸ばし、もう一度問いかけた。
「大丈夫ですか?」
ひどく心配した声だった。
「あ・・・、うん。平気。だいじょうぶ」
「どこか怪我は?」
「ない。先生が庇ってくれたおけげでこのとおり」
そう言って高耶は両腕を広げて見せた。直江は目に見えてホッとして、高耶の手を取り立たせてやる。そして苦笑まじりにこう言った。
「まったく驚きましたよ。いきなり落ちてくるんですから」
「オレだってビックリしたよ。濡れてんだもん、あの階段」
高耶は恨めしそうに階段を見上げる。雨の日は滑りやすいから足下に注意しなければいけない、とは常識だが、まさか本当に滑るなんて思わないじゃないか。しかも階段から落ちて直江に受け止めてもらうなんて。
少女マンガのような展開にガクッと肩を落とし、高耶は改めて直江を振り返った。
「ありがとう・・・。その、助けてくれて」
「いいえ。あなたが無事で良かった」
直江は朗らかな笑顔を向けてくる。これに高耶はまた、複雑な気分になってしまう。
直江のこの笑顔は、とても嘘や繕ったものには見えなかったのだ。
(・・・さっきの心配そうな顔も、この笑顔も、本心からのものだって・・・?)
思わずそう問いかけたくなる。
もし嘘じゃなかったら。
もし全部が本当だったら。
(だったら、あの・・・告白、も・・・?)
そう思って慌てて首を振った。そんな簡単に揺れてどうするんだ。たかがこれくらいのことで。
「じゃあ、行きましょうか」
直江に促され、歩き出す。
高耶の胸中では否定の二文字が無理矢理に、故意に強く作動していた。信じてしまったら馬鹿を見る。そう心が訴えているようだった。
それが高耶の4年間の生き方を物語っていた。両親が死んでからの月日の長さを。己の、脆さを。
だけど。
ひとつだけ、確かなものがあった。

受け止めてくれた直江の腕は、とても、温かかったのだ・・・。



食事に誘われた高耶は素直に直江の車に乗った。
避けていたことを問いつめられるだろう、という予感はしたが、なぜかもう逃げたいとは思わなかった。
直江が微笑ってこう、告げてきたからだ。
「今度は和食って、言ったでしょう?」
そんな直江に高耶は力が抜けた。
(・・・・・・。もう怒ってねーのかな・・・)

高耶は直江が問いつめることよりも、高耶と共に食事に行くことの方が重要だと思っているだなんて気づきもしない。
直江の本当の気持ちなど、この時の高耶にはまだ想像もつかなかったのだ。
そしていずれ、嫌でも知ることになる、その真実の重さをも。



直江は宣言通り、今夜は和食の店に連れて行ってくれた。
また随分高そうな老舗のようで気が引けたが、ご馳走してあげたいんですよ、と言われてしまってはどうしようもなかった。
悪いのはこちらの方、という意識がある高耶にはご馳走になる理由なんてなかったのだが、断れば直江を悲しませるような気がして、黙っておごられることにした。
出てきた魚料理はまた格別に美味しくて、高耶は胸が苦しくて仕方なかった。
直江が誠意を込めてこちらを気遣ってくれているのが伝わってくる。
判ってしまうのだ。
溢れてきたのは、もう誤魔化しようのない罪悪感だけだった。


「どこ、行くんだ?」
食事も済んで、後はまたこないだのように自宅の近くまで送ってくれるのかと思っていた高耶は、家のある方向とは全く正反対の方角へ車を走らせる直江を怪訝に思って問いかけた。
雨は昼間と変わらず降り続けている。
対向車のライトに照らされ、時折その程度を知ることが出来た。
今夜はもう、やみそうにない。
「行けば分かりますよ。時間はさほどかかりませんから」
それっきり、直江は何も言わなかった。
高耶も黙ったまま、沈黙が続いた。
それが破られたのは、静かに車が停車した時だった。
「・・・?ここは?」
あたりは真っ暗で何もない。別段何か面白いものがあるようにも思えない。
見えるものといえば、フロントガラス越しに広がる夜景くらいだった。
「夜景が、綺麗でしょう?」
「夜景?」
まさか、直江の目的はこの夜景だったのか?
(キ、キザなやつ・・・)
呆れるというか流石というか。
雨を避けるため、ワイパーが忙しなく視界の先を横切っていく。
視線を夜景に転じ、高耶はぼそりと呟いた。
「・・・・・・雨、降ってんじゃん」
「そうですね。晴れていたら、もっと綺麗に見えたんですが。残念です」
「晴れてる日に来ればいいのに」
「・・・なんとなく、今日じゃないといけない気がしたんです」
「え?」
その言葉に高耶は直江の方を向いた。瞬間ドキリとした。
直江はじっと、こちらを見ていたのだ。一筋に高耶のみを。
「直江・・・?」
何となくさっきまでとは違う気配を読んだ高耶は、ふいに言いようのない緊張感を覚えた。
無意識に手に力が込もる。
しばらくの沈黙の後、直江は静かに口を開いた。
「本当は・・・、夜景なんて口実に過ぎないんです。あなたをまだ、帰したくなかった」
深い鳶色の瞳が傍らから真っ直ぐに高耶の瞳を射る。
真剣そのものの表情に、先ほどの緊張感の意味を察した高耶は、目を合わせていられなくて逃げるようにそっぽを向いた。
「なに、女口説くような台詞吐いてんだよ」
口調は無意識に堅くなった。直江はそれに気づいているのかいないのか。
「いけませんか?あなたを口説いては」
「なっ」
「ああ、いまさらですね。私たちがつき合っているのなら」
狼狽えた高耶に、直江は苦笑を浮かべた。高耶は何も答えられない。
頬が熱を持った気がしたのは錯覚じゃなかった。
「高耶さん」
静かに、呼ばれた。
「私たちが、こうやってふたりでここにいられるのは、あなたが私に告白してくれたからに他ありません。そうですよね?」
「・・・・・・ああ」
「あなたから好きだと言ってくれた。だから私も誠意を込めてそれに答えようと思った。だからOKしたんです。もちろん、あなたが疑ってる遊びだとか気まぐれなんかじゃない。本当にあなたに惹かれたから、今こうしてつき合っているんです」
「・・・・・・・・・」
「あなたにどうしようもなく惹かれた。だから、あなたに好きだと言った。思ったことを、言葉にした。それだけです。他意なんかない」
高耶は自分の心情を見抜かれた気がして唇を噛んだ。
もう、聞きたくないと思った。
「あなたは私が信じられないのでしょう?でも、嘘は一切ないんです。高耶さん」
直江は背けられた高耶の頬に触れた。瞬間高耶は過剰なほど身を強ばらせたが、構わずこちらを向かせる。
見開いた瞳をのぞき込んで、直江は言った。
「あなたが、好きです」
「・・・っ」
「信じて。嘘じゃない」
いつになく強い口調でそう囁かれて、堪らなくなって、高耶はぐっと目を閉じた。
否定したい心が悲鳴を上げていた。でも肯定したいわけじゃない。こんなに胸が苦しいのはそのせいじゃない。
罪悪感。
・・・罪悪感。
「嘘じゃない」
罪悪感で心がいっぱいになる。
直江の目は嘘を言っていない。高耶は今までの経験から、他人の嘘を見抜くことには少なかれ自信を持っていた。だって目にこもる熱が違う。嘘を言う人間は、こんな深い色を宿さない。
嘘じゃない、そう分かってしまう。だからこそ、胸が苦しくてたまらない。
(騙してるんだ・・・。オレは)
本当は全部嘘なんだ。あの告白なんてみんな嘘っぱちだ。千秋に言われた通りにした演技に過ぎないんだ。真摯になんてならなくていい。そうされればされるほど辛くなる。
嘘でコーティングされた偽物など誠意を込めた本物に敵うはずもない。
(こんなつもりじゃなかったのに)
直江を落とせたんだから当初の目的通りだ。これは好都合なんだ。これで思う様思い知らせてやれる。報復出来る。―――そう思うのに。
「高耶さん」
なんでこんなに罪悪感に押し潰されそうになるんだろう。
直江が憎いはずなのに。復讐したい気持ちに変わりはないのに。
なんでこんなにオレは・・・!
「・・・高耶さん?」
呼ばれても高耶には答えられない。俯いてかたく、唇を噛んだ。
目を瞑ったまま反応を返さない高耶に、直江は浅く息をつくと、頬から静かに手を離して運転座席に体重を預けた。
沈黙が闇に深く沈み込む。
静寂の中だと雨の音が鮮明に鼓膜を震わせていく。
街の夜景は煙る雨の中、静かに眼前に横たわっていた。時間が経つにつれ少しずつ変化を遂げていく。
色とりどりのその様は、雨に遮られてもなお変わらず闇を彩っていた。
「心が・・・、落ちつくかと思ったんです」
不意に、直江がそう言った。
「・・・・・・え?」
「夜景を見ると、そんな気になりませんか。荒れた気持ちの時でも、どこかもの悲しくて美しい夜景を見ていると、気が静まる。思考が一に戻って洗われるような感覚がする」
高耶はゆっくり顔を上げた。
言われた通り夜景をひたすら見つめていると、なんだか身体の芯から力が抜けていくようだった。
思えば滑稽な話だ。
復讐を誓った相手と二人きりでこうして夜景を見ているなんて。
好きだ、なんて。
本気でオレに言うなんて・・・。
(バカな・・・やつ・・・)

暗闇と共に、時間がゆっくりと降ってくる。高耶はふいにそう感じた。



                    ◆◇◆◇



雨は一夜明けても上がらなかったらしい。
今朝もアスファルトを鉛色に染め、流れては溝を溢れさせた。
午後を過ぎると最後の抵抗のように一段と雨足が強まった。
花壇の花もいい加減うんざりしてしまうんじゃないかと思いながら、高耶は大学の図書館で窓の外を眺めていた。
授業は終わっている。
普段は試験前じゃないと絶対に訪れないんじゃないかと断言できる図書館で、高耶は先ほどから人を待っていた。
帰宅する時間帯に少々のズレはあって当然なのだが、相手は一緒に帰ることを譲りたがらない。
仕方ないので、高耶は退屈を持て余すあまり、その暇つぶしに図書館を選んだのだった。
だからって読書をするつもりはさらさらないようで、机に広げた本は形だけでさっきから一度もページがめくられていない。
「明日は晴れるかな・・・」
どんより曇った空を見上げ、高耶はひとりごちた。
雨は気を滅入らせる。昔から雨は好きじゃなかった。
嫌な記憶を蘇らせる。
「はぁ・・・」
大きいため息がひとつ、唇からこぼれた。

直江が息を切らせて図書館へ駆け込んできたのは、高耶が待ちくたびれて眠りこけてしまってから3時間ほど経った頃だった。
あたりは雨の影響もあり、すっかり日が落ちてしまっていた。
「すみません、遅くなってしまって。研究室を出ようとしたところを教授につかまってしまいまして」
「いいよ、別に。いい昼寝になったし」
欠伸をかみ殺し、高耶は鞄を手に取り立ち上がる。
図書館はとっくに閉館時間が過ぎていたらしく、残っていたことを怒られてしまった。
高耶は奥の一角で熟睡していたので、司書も気づかなかったらしい。
直江も一緒になって謝ってくれたら(もとはと言えば直江のせいなのだ)、若い女の司書は頬を赤く染めてあっさり許してくれた。
ケッと思いながら外に出ると、ひんやりとした冷たい空気が頬を撫でる。
どしゃ降りの雨を建物の明かりが一層際だたせていた。
直江は親切にも図書館に車を横付けしてくれていた。ここから駐車場まではかなりの距離があったので、歩かずに済んで高耶はホッとした。
代わりに直江は少々濡れたらしく、スーツの肩のあたりがじっとり湿っている。
「寒くないのか?それ」
高耶が肩口を指さして聞くと、直江は、
「冬じゃないんだから大丈夫ですよ」
と言って微笑した。
その笑顔に、なんだかな、と思う。
昨夜から、何だか自分と直江の関係が微妙に変わったように感じるのだ。
直江の自分に対する想いが嘘偽りじゃないと認めたからだろうか。何だか、妙にヘンな感じがする。
こうやって直江の車に乗るときも。昨日までとは全く違った感慨を抱く。
そう直江に伝えると、ものの価値観が変わったんじゃないかという言葉が返ってきた。
価値観、は確かに変わったかもしれない。高耶は直江に対して気負っていたものが自分でも不思議なくらい減少したように感じていた。
たぶん、開き直ったせいだと思う。
その分、身を裂くような罪悪感は増すばかりであったが。
高耶は昨夜、ずっと考えていた。これからの直江と自分の在り方について。
答えはまだしばらく出そうになかったが、焦ることもない、と思った。
直江の傍らは、意外にもとても居心地が良いのだ。
自分を包み込むような直江の包容力は、忘れていた安堵という言葉を思い出させる。

直江に復讐なんて、いつでも出来る。
そう、やろうと思えばいつだって。
だから、いまは。
もう少し、このままでもいいんじゃないか・・・、と。
そう、思ってしまったのだ。





『泡沫の恋』《5》  END

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