泡沫の恋 《4》
「お兄ちゃん!ほら、邪魔だよ、そこどいて」
居間でごろんと寝転がっている高耶を追いやるように、美弥が掃除機をかけながら迫ってきた。
高耶は面倒くさそうに寝返りを打つと、どけと言われたにも関わらずしぶとくゴロゴロ転がっている。
眠いわけではなかったが、起きる気力がない。
「お兄ちゃん!ゴミと一緒に吸い込んじゃうよ」
美弥の怒り声と共に目前まで掃除機が迫ってきて、流石に慌てた高耶はしぶしぶ身体を起こした。変に気だるい。はあ、と大きな溜息が口をついた。
「何?どこか具合でも悪いの?」
そんな高耶を美弥は心配そうに覗き込む。
「ああ、いや。別になんでもねーよ」
のそのそ立ち上がりながら微笑を返すと、高耶は自室へと移動した。
美弥の明るさが、無理なんかではなく本心からだと祈りながら。
日曜日の昼前である。珍しくバイトも入っていない今日のこの退屈な時間をどうやって過ごせばいいのか。出掛けようにも金がないのではどうしようもない。
美弥は今日は大掃除だと朝から張り切って掃除に勤しんでいるが、高耶は手伝う気にもなれず、だらだらとしながら時間を無意味に潰していた。
自室に戻った高耶は深々と息を吐き、ベッドに寝転がった。
なんでこんなにだらけてしまうのか。
単に暇なせい、というわけではなかった。かといって具合が悪いわけでもない。精神的なものの作用によるものだと、高耶は自覚していた。
仰向きにベッドに横になったまま、髪をかき上げ、高耶は薄く目を伏せた。
すると嫌でも瞼に浮かんでくる人影。
「ち、くしょー・・・」
高耶は両手で目を覆った。
なんでこんなに気が滅入らなければならないのか。
原因は他でもない、今自分と「つき合っている」直江信綱のせいなのだ。
(あいつが、急にあんなこと、言ったりするから)
一昨日は大学へ行っても極力直江とは顔を合わさないように努力した。直江の授業はあえてサボって学食で時間を潰した。そうでもしないと堪らなかった。
休日の土曜日はまるまるバイトが入っていたので、それだけに集中し、出来るだけ考えないようにしていられたのだが。
暇を持て余す今は否応なしにこないだのことが蘇ってきてしまう。
思考の端に追いやろうとすればするほど、鼓膜はあの時の直江の言葉を再生した。
――――あなたが、好きですよ。
「だあぁぁ!」
突然跳ね起きた高耶は枕を掴むと、力任せに壁に投げつけた。
溢れてきたものは羞恥でも嫌悪でもない。憤りに近かった。
なんで直江があんなことを言ったのか。高耶の頭を煩わせているのはそれであった。
高耶は直江が本気で本心でその言葉を告げたとはハナから思っていない。信じてもいない。
確かに落としてみせる、と息巻いていたのは自分だが、それに見合う理由が全く見あたらないのに信じられるわけがない。
好きになってもらえるほど共に時を過ごしてきたわけでもないのだ。
(つき合ったその次の日に、もう好き、だ?馬鹿じゃねーの)
悪態をつきながら、それでも収らず苛々とシーツを捲り上げる。
女を口説き落とす時もこんなに手が早いのだろうか。そう思うと、女と同等に扱われた気がして不快感が込み上げてくる。 行き場のない、憤り。それにどうしても耐えられなかった。
なんでこんな気持ちになるんだろう。別に直江が何を考えていようとどうでもいいことなのに。
好きだと言われたことで、素直に信用できない自分は直江に弄ばれていると意識したのだろうか。プライドがそれを許さないのか。だとしたら自分は随分勝手な人間だ。
騙しているのはオレの方なのに。
だからこそ、罪悪感は憤りを抑える形で色濃く存在する。優しげな直江の仕草に胸が痛まない訳ではなかった。けれど向こうも似たようなものならどっちもどっちだが。
「はぁ・・・」
気が重い。明日は確実に大学で直江に会うだろう。
どんな顔をしたらいいんだ。喜んだふりして直江とつき合っていけって?
・・・自信がない。
こんな無意味な関係になんの意味があるのだろう。くだらないばかりじゃないか。
決心が鈍り出す。
他人とつき合った経験の乏しい高耶には、どうすればいいのか検討もつかない。
恋愛経験の浅い高耶には、この手の駆け引きは苦痛でしかなかった。
このまま直江を騙しきって復讐までこじつけられるのか、早くも不安な高耶だった。

高耶はふと、目を開けた。

――――私はあなたと遊びでつき合うつもりは更々ありませんよ。

「・・・・・・だったら、どういうつもりだって言うんだ・・・」
信じ、られるわけ、ない。
恋愛はこんな簡単なものなのか?まして男同士なのに。
高耶はどこか信じることに怯えているようでもあった。
必死に信じまいとしているようでもあった。

――――あなたが、好きですよ。

高耶はぐっと目を伏せた。
弱々しい呟きが空中に消えた。
「・・・好き、か・・・・・・」


                  ◆◇◆◇


その日は朝から雨が降っていた。
おそらく桜もこの雨ですべて散りきってしまうに違いない。
いっそ潔く散ってくれたらなんの感慨も抱かずにすむ。胸躍るような短い桜の季節は儚く過ぎ去り、また平凡な毎日がやって来る。
平凡で、それでいて幸せで。
幸福は小さなものであるからこそ大切なのだ。何にかえても手放したくないと願うのだ。
そんな小さな幸せがふとした瞬間に途切れてしまう。
現実は願いに対し残酷だった。
知ってしまった今はもう、あの頃には戻れない。
戻りたい――と、自分は思っているのだろうか。
高耶は今は亡き両親の顔を思い浮かべた。笑顔は切なく霞んで消える。
そういえば、あの日も雨が降っていた。
厳しい寒さで身体の芯まで悴むような冬の日の午後だった。
暗い雨雲が立ちこめ、遠くで雷鳴が響いていた。
雨は日が沈むと同時に雪に変わった。
寒くて、凍えそうな夜だった・・・。
陰鬱そうに安物傘を差し、高耶は大学までの道のりを歩く。
感傷に浸っていても仕方ない。
今はもう、あの頃には戻れないけれど。自分は確かに幸せを取り戻したのだから。
美弥との、ささやかな幸せを。


「よっ、仰木くん。景気はどうだ?」
緊張感の全くない声が頭上から降ってきて、高耶は短く吐息した。
いつもの大学の食堂で、珍しく高耶は遠藤たちのグループと席についていた。
無論、高耶から誘ったわけではない。教室から出ていこうとしたら捕まってしまったのだ。
千秋は相変わらずの態度でズカズカと割り込み、ちゃっかり高耶の前の席を陣取った。
「おまえな・・・。少しは遠慮とかそういうの、したらどうだよ」
高耶は追い遣られたクラスメイトに目で謝り、冷たい視線を送った。
千秋は全く気にしていない素振りで箸を割り、てんぷらうどんを啜り始めた。
「まー、いいじゃねぇか。珍しくおまえが友達といるから、ガキん時からおまえの面倒見てきた俺様としては喜ばしいわけよ」
「誰が面倒見たって?」
「見てやっただろ?忘れるなんて薄情なヤローだな」
「オレは迷惑かけられた記憶しかないね」
「・・・おまえみたいなヤツのことなんて言うか知ってるか?」
「知らねーよ。つーか何でそれで割り込んでくんだよ」
「カタイこと言うなよ。だいたいおまえ、それがセンパイに対する態度かァ?」
「うるっせー」
すっかり周りの目を忘れ、ついいつもの調子で千秋と接していたら、気づいた時には遠藤たちは呆気にとられたように目を丸くしていた。
「なんか、意外だなー。仰木ってもっととっつきにくいイメージあったけど」
「あー、こいつ目つき悪ィもんな」
「うるせーっての!」
まあまあ、と遠藤に制させ、ムスッとした高耶は食べていた定食をかっ込んだ。
「そういえばさ、仰木。あの後直江先生に何か言われなかったのか?」
不意に遠藤が漏らしたその台詞に、高耶が過敏すぎるほど反応を返した。それを横目でみつつ、千秋が、
「何の話だ?」
と聞いた。
「あー・・・っと、3日くらい前に仰木が直江に呼び出しくらってたんスよ。直江が生徒呼び出すなんて珍しいなーって思って見てて」
「あの先生優しいもんな。特に女には甘い」
遠藤の友人の一人が笑いながら口を挟んだ。
「そうそう。けど直江ってムカツクくらい男としてスキがないっていうか」
「モテるの分かる気がするけど、でも生徒に手出したらさすがにムカつくよな」
「んなマヌケなことするかァ?だいたい眼中無いんじゃねーの?生徒なんか。あいつってもっとこう、20代半ばの大人の女が似合いそう」
好き勝手噂し始めた遠藤たちを遠巻きに眺め、千秋は再び高耶を見た。
だが高耶はいたって無表情だった。
(本当はもう生徒に手出してんだよな。・・・相手はコイツだけど)
そう考えると今更だが変な感じである。
反応のない高耶をジッと見ていたら、視線がうっとおしかったのか、キツイ目で睨まれた。
(おー、コワ)
高耶は一気に食事を終えると、会話に加わる気もないのか早々に席を立ってしまった。
遠藤たちが怪訝に思って呼びかけるが返事も返さず食堂を後にする。
「・・・あからさまなヤツだな、あいつも」
千秋は苦笑して、自分もトレイを手に席を立った。


「おい高耶。待てよ」
「なんだよ。ついてくんなよ」
「なに怒ってんだよ」
「怒ってなんかいねーよ」
「で、何があったわけ?」
「・・・何がってなにが」
「決まってんだろ。直江とだよ」
吹き抜けの廊下で、高耶はようやく足を止めた。
雨が吹き込んできて、足下は滑りそうなくらい濡れている。
雨足は朝と比べると酷くなっているようで、地面を打ち付ける雨の音がうるさいくらいだった。
そこかしこで雨の日独特の匂いが漂っている。
それっきり無言の高耶に、千秋は意地悪くこう言った。
「この計画を考えてやったのは誰だったよ?俺様だろ?おまえは俺に報告する義務があんだよ」
「・・・勝手なこと言ってんなよ」
「いいから、ホラ。言えよ」
暫く逡巡した後、高耶は仕方なく重い口を開いた。
高耶自身、一人ではもう考え込むのも嫌になっていたのである。
ぽつり、と語り出した。
「・・・あいつさ、言うことよく分かんねーんだよ。何でオレの告白にあんな簡単に応えたのか。何であんなすぐに受け入れられんのか。オレの何が興味関心に値するっていうんだ。ただの生徒にすぎねーのに。・・・だからか?珍しかっただけなのか。大人はそれだけで平気でつき合ったりできんのか?オレがガキなだけなのか。楽しければそれでいい、そういう感覚なのか」
「・・・高耶・・・」
「もう、わけ分かんねー。振り回されてるのはオレの方じゃねーか。バカみてーだ。あんな・・・・・・あいつにとっちゃ言い慣れた台詞かもしんないけど、そんな何でも簡単に・・・あんな言葉・・・っ」
「おい高耶!落ち着けよ」
苛立たしさがまたこみ上げてくる。感情的になってしまうのはどうしてだろう。
直江の姿を思い描いただけで、腹立たしくてたまらなくなる。
千秋は高耶を目立たないようにすみへと連れて行って、改めて問いかけた。
「おまえ、直江になに言われたんだ?」
「・・・・・・」
「高耶」
「信じてるわけじゃない。あんなのあいつの手なんだ。女たぶらかす手。引っかかったらバカを見る。罪悪感なんて感じてたらそれで終わりなのに・・・!」
高耶は壁に深く凭れ、息を殺して宙を睨み付けた。
そして、吐き捨てるように言った。
「オレのことが好きになったんだと。真面目なツラしてそんなこと、ほざきやがったんだ、あいつ」
千秋は驚いて目を瞠った。
「信じたりなんかしない。本気なわけないからな。でも、なら尚更そんなこと言ってきたあいつが赦せねーんだ!人のこと馬鹿にしてんのかよっ」
「・・・・・・・・・」
高耶の言うことは分かる。簡単に好きだと口にする直江の不誠実さが赦せないのだろう。
しかし、まさか、あの直江が?
千秋にも到底信じられない。男相手とかそういう意味ではなく。女に使う手とかいうのでもなく。
あの直江が高耶に告白した?あの、直江が。
「・・・・・・」
千秋は不意に背中に冷たい汗が伝っていくのを感じた。
嫌な予感が駆け上がってきて、思わず口元を押さえた。
(まさか・・・)

冷たい雨がコンクリートを打ち付ける。
庭の桜は雨に打ち据えられ、ついには最後の花びらも残さず無残に地面に落ちていった。
 

              ◇◆◇◆


高耶は結局、午後から入っていた直江の授業に出る気がせず、またフケてしまった。
逃げ回っても仕方ないとは分かっていたが、出来れば顔を合わしたくなかった。
かといって、このままで良いはずがない。
何より高耶には目的があった。そう、直江に報復する、という目的が。
たかが冗談で(又はその場のノリで?)告白された位で、何をそんなに動揺しているのか。
これじゃ目的達成なんて到底無理じゃないか。
高耶はそんな自分を恥じた。そんな軽い決心だったのかと、詰った。気持ちは負けてなんていなかった筈なのに。
先ほど千秋と別れる時、こんなことを聞かれた。「おまえのそれは誰のための復讐だ?」と。
そんなことをしても美弥が喜ぶなんて思っちゃいない。美弥のため、なんて正義感ぶるつもりもない。
強いて言えば自分の、兄としての感情のためだった。美弥の兄である自分はどうしたって犯人を許すことが出来ない。その感情を消し去るためには犯人への報復なしではとてもおさまらないのだ。
千秋はきっと、オレのことをムキになって直江を犯人だと決めつけて復讐を気取る子供じみたヤツだと思ってるんだろう。だけど千秋は、その反面、オレのこんな気持ちをたぶん誰よりも、理解してくれている。
だから止めない。オレの好きなように、気が済むまで、側で見守ってくれるつもりなのだ。
(甘えなんだ。オレのこれは)
一度決めたことも全うできずに復讐なんて出来るはずがない。
本当は、簡単でいいのだ。
拘りをいっさい捨てさえすれば。
楽しんだらいいのだ。この状況を。そのくらいの余裕がなくては騙している意味がない。
寧ろ好都合じゃないか。何を拘る必要がある。たかが直江の言葉に振り回されて。
(そうだ)
しっかりしろ!
パシっと自分の頬を打ち付け、高耶は目を上げた。
悩むのは時間の無駄だ。真摯である必要もないと思った。
新たに決意を固め、高耶は鞄を手に教室を出た。
そして一階への階段にさしかかった時である。
高耶の足が不自然止まった。見下ろす高耶の視界に、階段の下から見上げる直江の姿があった。
「仰木くん。探しましたよ」

低い声音でそう告げられ、一瞬その場に足が凍り付いた。
不器用に鼓動が波打つ。高耶は思わず強く、手を握りしめた。
「やっぱり来ていたんですね。他の授業はちゃんと受けているくせに、どうして私の講義は欠席したんですか」
「・・・・・・」
「しかも、二度も」
責めるようなニュアンスが感じられた。
高耶は逃げ出したくなる衝動を何とか堪え、声を絞り出した。
「・・・気分が、優れなかったんだ」
「私の授業の時に限り、ですか」
直江の視線は冷ややかに高耶を見据えている。静かだが、怒気を孕んでいるのがハッキリ分かって、高耶は身が竦んだ。
(なん、でオレが責められなきゃいけねーんだよッ。んなことオレの勝手だろうが!)
内心毒づきながら、しおらしく俯いて見せる。
「・・・私を避けていたんですか」
「・・・そんなんじゃ、ない」
「じゃあ、どうして」
誰もいないとは言え、階段の上と下でする会話じゃ無い、と思いながら、高耶はしばし黙り込んだ。
真っ直ぐに視線を向けてくる直江は真剣そのものだ。何をそんなに必死になってるんだろう、と冷めた頭で考える。演技でここまで出来たら凄いものだ。
答えない高耶に、直江は目を眇めて尋ねた。
「あの、私が言った言葉のせいですか」
僅かに高耶が身じろぐ。やっぱり、という直江の小さな囁きが微かにここまで届いた。
分かっていたんなら話は早い。
「だって、先生が悪いんだぜ。急にあんなこと言われたら誰だって・・・」
ぼそりと呟いた高耶の台詞を、直江はハッキリと捉えたらしい。眉間を寄せ、
「・・・そうですね。確かに急ぎすぎた私が悪かった」
と申し訳なさそうに頭を垂れた。
高耶は違和感を感じて、ふと戸惑った。
―――演技?本当にそうなのか?
「ここじゃなんですから・・・、二人きりになれるところに行きましょう」
そう、直江に促された時だった。
階段を下りる一歩を踏み出した高耶の身体が瞬間、大きく傾いだ。
雨のせいで湿気で濡れていた階段に足を滑らせてしまったのだ。
目を大きく見開き、高耶はそのまま落ちていく自分をまざまざと感じた。

―――――落ちる!
そう思って強く伏せた瞼の裏で、直江の声が響き渡った。




『泡沫の恋』《4》  END

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