泡沫の恋 《1》
独りでは辛かった。
独りではとても生きていけなかった。
一日一日をどうやって消化していくか。どうやって乗り越えていくか。
生活することに何より貪欲だった日々。貪欲であろうとした日々。
安易な方向へ流されてしまえば楽だった。
独りきりならプライドにしがみ付くこともなく、足掻くこともなく、落ちていけた。
落ちていけたら楽だった。でも、自分にはたった一人の肉親が在った。
世間の重圧に押し潰されまいと、必死に自尊心に縋り付いて守りつづけてきた妹の美弥。
独りでは生きていけなかったけれど、二人なら、なんとか明日への希望を持つ事が出来た。
けれど幼い子供がたった二人で世の中という荒波に立ち向かうには、オレはあまりに無力だった。
美弥と乗り込んだのは泥の舟。泥はいとも容易く波にあおられ流され溶けていく。
だけどオレはみすみす沈むわけにいかなかった。
美弥を――たった一人の妹を守らなければ。
いつしかしっかりしなくては、と自分を鼓舞し叱咤するのが習慣にさえなった。
全ては美弥のために。自分がやってやれる最良のことをしてやりたい。
オレがこうして美弥の側にあるのは美弥を守るためだ。
そうなら。命を賭けてでも美弥を守ろうと誓った。だから美弥を傷つける存在は絶対に許さない。
ちっぽけな背中で誓った固い決意を、絶対に嘘になんてさせない。
愛情は依存と比例している。自分には美弥が必要だった。
生きていく糧にも似た。それ無くしては意味を失うような。
自分が心を傾ける相手が、他には誰もいなかったから―――。
◇◆◇◆
早朝のしんとした空気が好きだった。
ほとんど無人に近い大学内はまだ人の気配をあまり感じさせず、
静寂のさなかに微かに聞こえる鳥の囀りは気持ちを穏やかにしてくれる。
安らげるこのほんのひと時を大事にしたくて、週5は早く出勤するのが男には日課になりつつあった。
けれど今日ばかりはいつものような清々しい気分になれない。理由は分かっている。
男は研究室の幾分重い扉を開いて、いつものように室内のソファーに上着を投げると深い溜息とともにその身を沈めた。
その理由は他でもない、今現在かなり進行してしまっている縁談話のせいである。
去年のクリスマスに親の勧めで無理矢理見合いをさせられてからこっち、
何かと自分の与り知らない処で着々と話が進んでいるようなのだ。
相手は恩師である浅岡教授の一人娘だもんだから邪険にも出来ず、
何より相手がいたくこちらを気に入っているのだというから始末に悪い。
名前は確か麻衣子といったか・・・。
だがいくら見合いをしたといっても、今ひとつ乗り気になれない。というより全くこちらはその気がないのだ。
確かに自分は今年の5月で31歳になる。そろそろ身を固めてもおかしくない年歳なのは分かっているが・・・。
(だがな・・・)
男――直江信綱はパーラメントを口にくわえ、小気味良い音をたててジッポで火を点ける。
煙と一緒に再び盛大な溜息がこぼれた。
正直言って面倒くさいのだ。相手のヒートアップぶりに辟易している感もある。
直江はハッキリいって女には不自由しない生活を送っている男である。
こちらが何も言わなくとも女はいくらでも寄って来たし、直江もそれをよっぽどじゃなければ拒むことはしない。
同僚の綾子には女タラシだなんだとよく言われるが、
まあ、当たらずとも遠からずどころか当たりまくっているので反論できない。
スラっとした長身に逞しい体躯。
けれど威圧感を与えぬ柔らかな物腰。
声音は程好く低くセクシーらしく、耳元で囁くとどんな女でも簡単に落ちたものだ。
何も今すぐ結婚などしなくても・・・、というか、もう少し遊んでいたいのが本心だった。
家庭に入れば縛られる。それも嫌だった。
ふと窓の外に目をやると、憂鬱な気分とは裏腹に鮮やかな桜の花が一面を彩っている。
(そういえば今日は・・・)
直江は腕時計に目をやった。そろそろ騒がしくなってくる時間帯だ。
しかも今日は入学式だった。
素早く灰皿に煙草を押し付け火を消すと、直江は上着を手に取り研究室を出た。
掲げた手のひらに桜の花びらがかすめていく。
仰木高耶は空を仰ぎ、桜のピンク色と重なって見える青空に目を細めた。
今日はいい天気だった。
「よっ、高耶。早いな」
「千秋」
大学までの短い坂を登っていた時、後ろから肩を叩かれた。振り返ると幼なじみで悪友の千秋修平だった。
彼は坂の上の大学の二回生で、高耶よりひとつ年上になる。
昔から家が近いことから、何かといっちゃよくつるんでいた。
4年前の高耶の両親の事故以前、の話だが。
二人は並んで、桜の舞う坂道を登っていく。
「さすが張り切ってんなァ。愛する美弥ちゃんのためなら火の中水の中、ってか」
「当然だ」
千秋の揶揄いを撥ね退けるように、高耶はキッパリと言い放った。
だが千秋も心得ているらしく、真面目に視線を正門前に映すと、
「いよいよだな」
「・・・ああ・・・」
「心の準備は出来てっか?」
「ああ」
「しっかし、驚いたぜ。まさかあの直江センセが美弥ちゃんを襲った強姦魔だったなんてよ」
「・・・・・・」
高耶が千秋のもとへ久しぶりに連絡を入れたのは、今年の元旦のことだった。
久々に昔の幼なじみから連絡が来たと思いきや、第一声から「犯人探しを手伝え」と来たもんだから、
あの時は流石の千秋も驚愕を隠せなかった。
なんでも高耶の妹の美弥がクリスマスに強姦未遂に遭い、
その犯人がどうやら千秋の通う大学の関係者の可能性がある、というのだ。
美弥のことは千秋も昔から可愛がっていた妹みたいなものだったので、二つ返事で承諾したものの、
新年早々から休みで閉鎖されている大学に忍び込んで教職員の名簿を調べて回ったのには勘弁しろと言いたくなったが。
そして高耶が美弥とともに見たという証言から、犯人は直江信綱という一人の助教授に絞り込まれた。
顔写真だけではよく分からなかったため(あの時見た姿は遠目だったので、体型は分かっても顔の判別はつかなかったのだ)、
わざわざ千秋に校内にいる直江の姿を隠し撮りさせ、核心を得たのだった。
「直江っつったらこの大学では知らない奴はいないんじゃないかってくらい有名な人物だぜ。
あの容姿に加えココんとこも随分優秀で、奴を可愛がってる教授連中も多いらしい」
千秋は人差し指でトントンと頭を示して見せた。
「ムカツクけど当然女にもモテ放題シ放題、だろ。言い寄ってくる女は後を絶たねえって話だぜ。
そんな男が言ってみりゃまだ子供の美弥ちゃんを襲ったなんて、とても俺には考えらんねーけどな」
実際に美弥は確信して直江が犯人だとは言っていないのだ。
ただ、あの場に直江がいた記憶が断片として頭に蘇り、すっかり怯えてしまっている。
問いただしても要領を得ないばかりで、ハッキリ言って直江が犯人だという可能性は薄かった。
「・・・・・・だからなんだっていうんだよ」
その時、黙っていた高耶が千秋の言葉を振り切るようにして声を発した。
「人間なんて一皮剥けば普段からは想像出来ないような本性を現すじゃねーか。表向きの顔なんて信用出来ない。
確かにあいつが犯人だっていう確証はねぇよ。だけど」
唇を噛み締め、言葉を噛み締めるように高耶は言った。
「もう後戻りなんてできねーんだ。今美弥を脅かしてる存在は確かにあいつなんだ。
あいつがあの晩あそこに居たっていうのは確かなんだ。可能性は薄いかもしれない。けどゼロじゃない。
理由なんてそれで充分じゃねーか!」
「高耶・・・」
「ここまで来たんだ。後には戻れない。オレが何のためにわざわざこの大学に入ったと思ってるんだ」
そう、全て直江に対する報復のため。
美弥を傷つけた、その事実はなんとしても許せない。
「何をしてでも必ずこの手で復讐してやるんだ・・・!」
高耶の決意は固い。
千秋は諦めるように吐息した。
「分かったよ。一度乗りかかった舟だ。最後まで付き合ってやるよ」
「千秋・・・」
「俺にとっても美弥ちゃんを傷つけたヤローは憎いからな」
高耶はもう一度きつく唇を噛み締め、頷くと目前に迫る正門を見上げた。
(全てはここからだ・・・・・・)
挑むような眼で大学を睨み据える高耶を、千秋はどこか痛そうな眼差しで見つめている。
「再会」は目前に迫っていた。
◆◇◆◇
高耶は直江の講義をすべて取っていた。
いつでも直江の授業になると、怒りが込み上げ殴り飛ばしたくなる衝動を堪えるのに必死だった。
(なんでもいい。まずは奴の弱味を握りたい)
そして少しでも距離を砕く。近づくことが出来れば、チャンスは必ず巡ってくるはずだ。
千秋から思わぬ情報が入ったのは、入学してから1週間後のことだった。
「結婚・・・?直江が?」
昼時の混雑した食堂で、二人は向かい合わせに座り、少し早めの昼食を取っていた。
混んでいる食堂内は学生のしゃべり声で煩くて、誰も二人の会話を聞いている者はいない。
だから安心して話せるので、何かと二人はこの食堂を利用していた。
高耶は今聞いた千秋の台詞に僅かに眉を寄せた。
「最近もっぱらの噂だぜ?なんでも相手は浅岡教授の一人娘とかなんとか。
正式に婚約も済ませて秋には結婚〜なんて話も聞いたな」
「・・・・・・」
「浅岡教授の娘っていったら父親に似ずに結構な美人だったぜ〜。
俺も前に一度奴と校内を歩いてる処を見かけたけど、そういやかなりいい雰囲気だったな」
「直江が・・・結婚」
「どうする?高耶」
千秋は悪戯を思いついた子供のような目をしながら向かいの高耶を覗き込んだ。
「・・・どうする、って?」
「この機を逃すお前じゃないだろ?チャンスだぜ、高耶」
「・・・ああ」
高耶もその口元に似合わぬあざとい笑みを浮かべた。
「奴を幸福なんかにしてやらない。二人の仲をぶっ壊してその婚約破棄にしてやる」
◇◆◇◆
「ちょっと待ちなさいよ直江!まだ話は終わってないわよ!」
後方からウンザリするような金切り声で怒鳴られ、直江は思わず耳を塞ぎたくなった。
無視して行こうものなら明日どんな嫌味を言われるか分かったもんじゃないので、仕方なく後ろを振り返る。
そこには長い髪をアップに纏めた美人の女性が――仁王の如くこちらを睨みつけていた。
「・・・だから何度も説明しただろう。今日はこれから大事な用があると」
迫力ある睨みに引きつりながらも直江は今日何度目かになる説明を口にした。
だがこの同僚の門脇綾子には、それは単なる口実だとしか思えなかったようだ。
「何が大事な用よ。どうせまた女でしょう?」
「綾子・・・」
「最近随分噂になってるようじゃない?麻衣子さんとの縁談話は上手くいってるの?」
直江がこの話題を極端に嫌がっているのを知っていての嫌味だ。
さっそく不機嫌をあらわにした直江に綾子は更に、
「あんたも大概よくやるわよね。麻衣子さんとの婚約まで話を進めておいて、裏では何人女がいるのやら」
「俺は進んで婚約した覚えは更々ない。勝手に親同士が盛り上がっているだけだ」
「でもそれに反論する気もないんでしょう?」
痛いところを突かれ、直江は嫌そうに顔を逸らした。
「そりゃそうよね。なんと言っても相手はあの浅岡教授の一人娘だものね。断れるわけないわよね」
嫌味たっぷりの綾子の言葉に、直江は忌々しそうにうるさい!と怒鳴りつけ、後は振り返らないまま足早に歩き出した。
綾子のせいで気分が一気に不快になった。
それでなくとも最近イライラすることばかりなのだ。
直江は大学の敷地内にある駐車場に着くと、乱暴にポケットから鍵を取り出し車に差し込んだ、その時だった。
「直江先生!」
不意に後ろから名前を呼ばれた。
今度は一体何なんだ、と思いながら心の苛立ちを何とか沈み込め、直江は声のした方を振り返る。
一人の青年が息を切らしながらこちらへ駆けてくる。どうやら学生のようだが・・・。
青年が自分の目の前に立った瞬間、直江は目を瞠った。
「あなたは・・・」
「すみません、帰るとこ。でも、オレ直江先生にどうしても言いたいことがあって」
しばらく呆然となり、食い入るように見つめてくる直江にお構いなしに、青年は軽くお辞儀して自己紹介した。
「オレ、いつも直江先生の講義受けてる仰木といいます。覚えてませんか?」
「・・・・・・」
直江は沈黙したまま答えない。いや、声が出なかった。
目の前にある現実を、どこか遠いところで眺めているような感覚に陥る。
そして青年――高耶は直江に向かい、深呼吸一つして、こう言ったのだ。
「オレ、先生が好きです。初めて見た時から、好きでした」