泡沫の恋 《14》
 


泡沫の恋≪14≫



もうなにもいらない、と。あの時確かに思った。
重なる肌の温もりは手放し難く、目の前の幸福という名の陶酔感にどこまでも酔っ た。
奪うように、貪るように交わしたくちづけは頑強な理性をもあっけなく溶かしてオレ を骨抜きにさせる。
夢中で唇の感触を味わいながら、泣きそうになった胸の内を明かすのが嫌で、無理に 浮かべたはにかんだ笑みをおまえはどう思っただろう。
こんな時でさえ意地を張ってしまう自分が悔しい。
だけどおまえはその全てで返してきた。
想いの全てを行為で目一杯ぶつけてきた。
おまえは幾度も愛の言葉を囁いてきたけれど、本当に愛していると叫びたかったのは オレの方だった。
愛しい、と。そう心から思う。
もう自分に誤魔化しは効かない。
直江が好きだ。好きだ。好きなんだ。
こんな風に感じたのは初めてだった。
甘えかもしれない。逃避かもしれない。でも、それでもいい。
直江がほしい。
一度でいいから手に入れたかった。幸福になりたかった。これはオレの我が儘だ。
直江を許したわけじゃない。
けど憎んだぶんだけ、同じくらい、おまえを愛したかった。




溺れる感覚に似ている。と、思う。
魂から根こそぎ。
深い海底に沈み込む―――波に捕らわれて抗えない。
さらわれてゆられて静かに沈む。
おまえの全てに包み込まれてどこまでも溺れる。
息が出来ない苦痛と、それを上回る質量で迫る充溢。
寂寥感をどこまでも埋めていく。
熱い灼熱の楔に神経が焼き切れ、上がった嗚咽と悲鳴を慰めるように、宥めるように 背中に降る口づけが切なく肌を戦慄かせた。
抱えられた脚も。
絡められた指も。
重なり合う躰も・・・。
いま、この瞬間、それだけが互いを確かめ合える唯一のもので。
唯一の、偽りのない裸の姿で。
触れ合った舌の熱さに喉が震える。空気を求め彷徨う唇が、またすぐに口づけに還 る。
このまま、死んでもいい。
そう囁いたのは直江だった。
烈しい囁きを耳に受け、ブルリと首を竦める高耶の耳朶を食みながら、
「このまま・・・、いっそ俺を殺してください・・・・・・」
この温もりが幻じゃないと信じさせて欲しい。
決して消えない温もりを、俺に与えて欲しい。
夢のような現実は、きっと次の瞬間消えてしまう儚い幻想に違いない・・・。
「高耶さん・・・、高・・・」
祈りは熱心な愛撫に変わり、高耶の肌を朱に染めていく。
直江の首に腕をまわして、きつく抱き締めた。
きつく、きつく目を閉じた。
愛の言葉を声に出して返すことは、まだ出来ないから。
いまはまだ、出来ないから。
身体中で伝える。せめて行為で知って欲しい。
もう、きっとこれが最後だから。
哀しい決断を胸に、高耶は掠れた声で喘いだ。

忘れないように。
刻み込むように。

「直江・・・・・・」

おまえを、愛してるよ。
愛してるよ・・・・・・。




                         ◇◆◇◆



雨は太陽が昇る時刻には止んでいたようだった。
葉からこぼれ落ちた雫が太陽に照らされきらきら輝く。
鳥の囀りが木霊する。
直江はカーテンの隙間から差し込む眩しさから顔を背けるようにして、ぼんやりと目 を開いた。
隣で眠っているひとの姿を見つけようと、手探りする。
だが、すでにシーツは冷たい感触でもって直江を拒絶していた。
「高耶・・・さん・・・?」
ゆっくりと起き上がる。
まるで夢でも見ていたような、現実からはほど遠い一夜の幻のような・・・。
そんな幸福な錯覚を、直江はこの手で確かに抱き締めていた。
まだ手のひらに生々しく残っている。
初めて抱き締めた高耶の素肌。
温もり、熱、鼓動・・・。
ゆっくりと、手のひらを握り締める。
上体を晒したまま、直江はその感触を甦らせようと目を伏せた。
「高耶さん」
夢じゃ、ない。
夢ではないはずだ。

全ての部屋を隈無く探しても高耶の姿はすでになかった。
いったいどこへ・・・。

まるで一夜の幻のような―――・・・。





夢は叶わないから夢だという。
儚く揺蕩う泡沫の恋。
ひとときの幸福の時間。

夢はいつか覚める。
醒めなくてはあり得ない。


地面はまだ昨夜の雨に濡れていた。
水溜まりに眩しいくらいの青空と太陽が映り込んでいる。
高耶は自宅に着くと、ゆっくりと深呼吸した。
「ただいま、美弥」
声をかけドアを開くと、中からみそ汁のいい匂いと、エプロン姿の美弥が現れた。
「おかえりー。もう、朝帰りなんてお兄ちゃんもスミに置けないなぁ」
「ばか。そんなんじゃねーよ」
「帰らないなら電話してよぅ。昨日の晩ご飯残っちゃったじゃない」
「悪い。今から食べるから」
食卓についた高耶の前に、温め直した昨日のおかずと白いご飯と、作りたてのみそ汁 が並べられた。
「美味そうだ」
「それ美弥の自信作なの!じゃあ、時間ないからもう学校行くね」
笑顔でカバンを手に出ていこうとする美弥を、高耶も笑って見送る。
「ああ、行ってらっしゃい」
なんでもない、いつも通りの平和な時間。
両親が亡くなってからずっと守り続けてきた時間。
高耶は湯気のたったみそ汁を手に取って、ゆっくりと啜った。
「あったかい・・・・・・」
両手で大事に抱えて、もう一度啜る。
いつだか美弥の作るみそ汁は、母親の味付けに似てきていた。
懐かしい、愛しい味。
ポタ・・・と、机に小さな粒が落ちる。
高耶は唇を噛み締めて、込み上げてくる嗚咽を必死に堪えた。
なくせない。
どうしても、なくせないんだ。
「おまえと・・・幸せになるわけには・・・いかないん・・・だ」
置いてきてしまった直江を、高耶は断腸の思いで意識の底へ呑み込ませた。



                         ◇◆◇◆



ようやく前期試験も終わり、季節は夏真っ盛りに突入していた。
長い夏休みを有意義に過ごすため、高耶は割のいいバイト探しに奔走し、毎日を働く ことに費やしていた。
美弥も友人たちと海に行ったり小旅行に行ったりと、毎日が忙しそうだった。

千秋が数年ぶりになるだろう高耶の家を訪れたのは、7月も終わろうかという時だっ た。
「よ。久しぶりだな」
偶然バイトのない日で家にいた高耶は軽く驚き、こぢんまりした室内へ千秋を通し た。
ちょうど昼時ということもあって、千秋の分のそうめんも湯がきながら、
「めずらしいな。おまえが訪ねてくるなんて」
「そういやそうだなー。すっげー久しぶり」
土産のビールを昼真っからあおりながら、千秋はTシャツの裾をバタバタさせて滴る 汗を拭った。
「いやー、しかしあっつい部屋だなァ。クーラーねぇのかこの家は」
「んなゼータクなもんねぇよ。扇風機で十分だろが。まったく、美弥のやつもクー ラー買おう買おうってしつこいし」
「バイトでだいぶ金貯まってんだろ?買えよそのくらい。今年の夏は暑いらしいぜ」
「・・・考えとくよ。さ、出来たぜ」
高耶はザルに上げたそうめんを冷水に晒し、千秋に冷蔵庫からめんつゆを出すように 言いつけ、ほどなく用意が整って二人はそろって食卓についた。
氷でよく冷えたそうめんは、いくらか気分を涼しくさせてくれる。
焼き卵を突きながら、千秋が不意にボソリと訊ねた。今日来た、これが目的だったよ うだ。
「・・・そういやおまえよ、あれからどうしてるんだ?」
「どうしてるって、なにが?」
「とぼけんなよ。直江とのことだよ」
「・・・・・・ああ」
「ああ、って。それだけか?」
「それだけだよ。別にもう何もないし、関係もない」
高耶のあっさりとした回答に、千秋は目をしばたかせた。
「あれから会ってないし。会う気もない」
「って、おまえ。それマジか・・・?」
あの時掠れた声で直江に会わせてくれと言っていた高耶はどうしたのだ。
「・・・あれから直江と何かあったのか?何かまた、嫌なことでもされたのか」
真顔でそんなことを真剣に言ってくる千秋に、高耶は苦笑した。
「なに笑ってやがんだオメー」
「・・・いや。おまえっていいヤツだって思ってさ、千秋」
「ぁあ?」
一気に目尻がつり上がった千秋を見て、また噴き出してしまう。この男は自覚してい ないのだろうか。根っからの世話焼き体質で、何だかんだ言っても人一倍お人好しだ ということを。
高耶は箸を置いて、
「いつも心配かけて悪い・・・。おまえにはホント感謝してるんだぜ」
「やめろバカ。気持ち悪ィ」
「直江のことも。おまえの計画がなかったら、あんなふうには出会えなかった」
千秋はふと、高耶の瞳を凝視した。
どこか不思議な色合いを醸している。悲嘆でもない、喜色でもない。
「オレは・・・直江が好きだ。そのことはどうしようもない事実だし、ああなったこと に後悔もしてない。たださ・・・、オレは一個の人間としては無力だけど、美弥の兄と してはいつも力ある存在でいたいんだ。頼れる兄でいたいんだ」
この空間を、いつまでも守りたいんだ。
「オレは、美弥の兄だから」
「・・・だから犯人は許せない、ってか」
「・・・・・・ああ、許せない。今でも憎いよ。今すぐこの手で仕返ししてやりたいくらい 憎い」
「でも、おまえ言ってたよな?それと直江を想う気持ちは別だって」
「言ったよ。だから直江のことは今でも・・・好きだ。でもそれでは終わらないんだ。 そんな簡単じゃ・・・ないんだよ」
そんな簡単なことでは解決できない。
してはならないと高耶は思う。
最後に直江に会った夜は・・・ただ、直江を想う気持ちだけが先行して、それのみが全 てだった。それで完結できたらそれで良かった。その方が、どんなに幸せだっただろ う。
だが、高耶はそれを選ばなかった。いや、選べなかったのだ。
直江への想いを優先すれば、美弥を裏切ることになる。そんなことが高耶に出来るは ずがなかった。美弥の兄として。それだけは手放せない最後のプライドだった。
暫く黙ってそんな高耶を見つめていた千秋だったが、一度軽く目を伏せると、
「それがおまえの出した結論か」
と問うた。
「・・・そうだ」
「それで、後悔しないんだな」
「後悔・・・しても、そんな気持ちはいつかなくなる。だから、いいんだ・・・」
美弥との幸福で平凡な生活さえ守られればそれで。
自分の想いなんか・・・そんなもの・・・・・・。

千秋は帰り際、こんなことを言った。
「なぁ、高耶。直江は確かに美弥ちゃんにとっては悪かもしれない。・・・でも、おま えにとっちゃ善そのものだったんだろう。偽りなんかじゃない。どっちも本物の直江 だ」
「・・・千秋」
「おまえはさ、美弥ちゃんをちょっと大事にし過ぎじゃないか?あの子はもう、おま えの加護を必要としてた幼い子供じゃないんだ。自分で考え、自分で乗り越えられる 歳だ」
「・・・・・・」
「おまえが、犠牲になることなんてないはずだ。あの子はいつか別のヤツが幸福にし てくれるさ」
「・・・・・・。余計なお世話だ」
「だろうな。んじゃな」
暮れていく太陽をバックに去りゆく千秋の背中を眺め、不意に高耶は自分の両腕を抱 き締めた。
ブル、と震えが走った。
「・・・さむい、な・・・」
夏なのに。
心にポッカリとした空洞が口を開け、そこに容赦なく風が打ち付けてくる。 孤独感に、喘いでいる。
高耶は暫くじっと千秋を見送っていると、やがてのろく家に引き返していった。


それから何度か、直江から連絡がきた。自宅の電話の留守電に数件のメッセージが 入っていたが、高耶がそれに返すことはなかった。
一度、どこから嗅ぎ付けたのかバイト先にまで現れたことがあったが、なんとか逃げ 出して接触を回避した。徹底的に無視をして、そうしていくうちにだんだん直江も諦 めたのか、やがて連絡も途絶えていった。
それでいいいのだ。そのほうが。
やがて時間が経つにつれ、段々想いも薄れてくるだろう。
そうして夏休みも終わりを告げ、後期開講後も前期のみだった直江の講義はなくな り、完全に会う機会を失われたまま、いつしか空気は冷たく冬の気配を感じさせてい た。









『泡沫の恋』《14》  END

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