泡沫の恋 《15》
 


泡沫の恋≪15≫



久しぶりにその場に足を踏み入れたのは、実に五年ぶりであった。
しんと張りつめた空気の中、ひとりの男が無人の公園に佇んでいる。
背の高い男だ。手をコートのポケットに入れ、煙草を銜えている。
その姿はこの場所には何処か不釣り合いで、黒いコートだけがいやに目立っていた。
男は高い空を見上げ、目を細める。
一面雲に覆われた空はどんよりと暗い。
五年前も、ちょうどこんな感じの天候だった。
その日のことを、自分は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
寒い日だった。
空気までが凍りそうな寒い夜だった。
雪が降っていた。
公園の片隅で膝を抱えて蹲っていた独りの少年。
あの日、この場所で、初めて出会ったのだ。
仰木高耶――――あなたに。


あの瞬間だった。
陳腐な言い方をすれば、その一瞬で俺は確かにあなたに恋をしたのだった。
思えば我ながら一途な片想いだった。
大の男が名も素性も知らない、しかも少年に恋をするなんて。考えただけでも笑って しまう。
だけど想いは本物だった。驚くほど正直で純粋な感情だった。
心が魂が、叫んでいる。あの人が好きだと。
あの人のことが知りたい。手に入れたい、と。
けれど俺は、一体何をしていたのだろう。
年下相手に、酷く滑稽な空回りを、自分は何年も・・・・・・。
不意に喉から哄笑が洩れた。
それで得られたものは何だ。
信頼を握り潰して無理に奪った一夜の快楽か。
求めていたのはこんなことではなかったのに。

・・・あの日のあなたは、本当に孤独だった。
その姿は、どこか、似ていたのかもしれない。
あの頃の腐りきった己自身と――――。




ジャリ、という足音が聞こえて、直江はふと振り返った。
途端にみるみる顔色を変え、目を見開く。
そこになんと、高耶が現れたのだ。
夢かと、思った。
また再び消えてしまう幻ではないか、と。
自分は願望や妄想ばかりが脳内を巡りまくっていて、もうどれが本物なのかすら判別 出来なくなっているのかもしれない。

実際に、今こんなところに高耶がいるはずがないのだ。
こんな偶然は信じられない。
あれだけ一切の連絡を拒んだ高耶だ。もう自分のことは完全に見限ったに違いなかっ た。
「私は都合のいい人間です」
静寂のさなかで、直江の声が虚しく響いた。
「だからこんな幻を見る。あなたとのあの一夜も、きっと自分の都合のいいように見 た単なる妄想に過ぎなかったに違いないんだ」
高耶は驚いたように瞠目した。
「俺は狂っているんだ。だからこんな幻覚を見る。あなたを想うこの気持ちは、もう 自分でもとっくに制御できるものじゃない」
「・・・・・・」
「あなたがどれだけ私を憎んでいるのか分かっていても・・・、自業自得であっても」
「・・・・・・・・・。なんで・・・、こんなところに・・・?」
少し黙って、高耶は静かにそう聞いてきた。高耶にとっても、こんなところで偶然直 江に会うだなんて思ってもみなかったのだ。声は驚愕に彩られていた。
「ここはおまえの家からはずいぶん遠いのに」
「・・・・・・そういう、あなたは・・・?」
どこか疲れたように、直江は問い返した。
無理に投げかけた微笑は深い苦渋を刻んでいる。
「・・・オレん家、ここのすぐ近くだから。今日はバイトの帰りに偶然寄っただけ」
この公園は、直江が高耶を車で送った時に決まって降ろしていた場所だった。
高耶の家からはものの五分とかからない。
そうですか、と直江は返し、そのまま数秒間重い沈黙が流れた。
高耶はギクシャクとそばにあったベンチに腰掛け、何度も言葉を選ぶように逡巡し、 ようやくこう口を開いた。
「おまえが・・・・・・あれをどう捉えたのか分かんないけど・・・、あれはただのオレの我 が儘だったんだ。おまえのせいじゃない」
「・・・・・・あれ、とは」
「あの・・・・・・夜のこと」
「!」
「ずっとおまえに謝りたかった。あんな形で置いていって、散々逃げて・・・。あれは 全部、オレの自分勝手な自己満足だった」
「・・・・・・」
直江はひたすら表情を凍らせて聞いている。
「酷いことを、した。おまえの気持ち、分かってるくせに・・・。本当に」
高耶はあの夜、直江のところに行くべきではなかったのだ。
どれだけ心が溢れて抱えきれなくなっていても。
こんなふうに直江を傷付けることになるのは分かりきったことだったのに。
でも、そう考える余裕すらなかった。あの時は。
直江への気持ちだけがいっぱいだったのだ。
だが、それなら直江の犯した罪とどう違う?言い訳したいわけではない。比重の違い ではなく、相手を己のエゴで傷付けた分では同じではないのか。
「・・・・・・いままで、ずっと考えてた。おまえのこと、美弥のこと、オレ自身のこと ・・・」
瞼を伏せて、高耶は自分を抱くようにしながら、
「考えないようにすればするほど、やっぱり考えちまうから。千秋に言われた通り、 後悔なら腐るほどしたよ。自分で選んだくせに、泣きを入れる柔な精神が悔しくてた まらなかった・・・」
その度に思い知るのだ。自分の心に。
「そしたらさ、いつだか美弥のやつが言うんだ。美弥はもう、お兄ちゃんばっかり 頼ってるんじゃなくて自立しなきゃ、って。オレは今まであいつを守ることだけが存 在意義だったから、もう、なんだか力が抜けた・・・っていうか。拘っていつまでも前 に進めないのはオレだけだったのかもしれないって・・・そう思った。時間の経過と同 時に、人の心も成長してるってこと、忘れてた」
直江は痛そうな目で高耶を一筋に見つめていた。その言葉を一言も聞き逃すまいと。
「オレが意地になって守りたいって息巻いていたものは、実際にはこんなにも成長し ていたんだな・・・」
空を仰ぎながら、高耶は自分で発した台詞を噛み締める。
そう考えられるようになるまで、半年かかってしまったけれど。
でも、今はもう迷わない。
冷たい空気を吸い込みながら、高耶はふと思い出したように直江を見た。そうしてこ んなことを言い出した。
「そういえば・・・さ、ずいぶん昔にこの公園で、こうしてひとりで座り込んでたこと があったな」
「――――」
高耶はその頃を思い出して、同じように膝を抱えて蹲りながら、
「その日は事故で亡くなった親父とおふくろの葬式があってさ・・・。その途中で逃げ るみたいに抜け出してきて、ここに来たんだ」
高耶は苦笑いを浮かべ、回想するように目を閉じた。
「まだガキだったからさ。辛くて。一度に両親亡くした悲しみと、これから美弥とふ たりきりで生きていかなきゃならない現実に押し潰されそうで・・・、人前と美弥の手 前、目一杯我慢してたけど、本当は思いっきり泣きたい気持ちでいっぱいでさ」
幼い心は悲鳴を上げていた。
死んでしまった両親に対する深い悲しみと、拭いようのない置き去りにされたかのよ うな孤独感。
「この現実を受け止められる強さが欲しかった。もうこれからは甘えてられないん だ、しっかりしなきゃって。・・・・・・そういや確か、その時ヘンな男が現れて・・・」
高耶は目を開けて苦笑した。
「そう、確か全身黒ずくめで、やたら背の高い若い男だった。なんでかこっちをじっ と見てくるんだ。オレ、まるで責められてるみたいな気になって。こんなところで何 を泣いている、メソメソするな、無様だって。そう言われてる気がして、悔しくてそ いつのこと思いっきり睨み付けてやったんだ。―――もしかすると、自分でひたすら 隠そうとしてた、これからは微塵も見せちゃいけないオレの弱さを見られた気がした のかもな。恐くてさ。逃げるみてーにそいつから去ってったんだけど。・・・・・・なんだ ろう、なんか、今思うとそいつ、少しおまえに似てるよ・・・・・・」
直江は耐えるように、辛そうに眉を寄せ、絞り出すように一粒、涙を落とした。
それを見た高耶が驚いて立ち上がる。
「直江・・・?」
高耶の呼び声に縋るように、吸い寄せられるように、直江は震えながら高耶を抱き寄 せた。
そして告げる。
「あなたを愛しています」
「なお・・・」
「愛しています」
震える腕で、必死に高耶の温もりを確かめようとするように、噛み締めるように。
「愛している―――」

高耶が覚えているなんて夢にも思わなかった。
高耶は覚えていた。ちゃんと、覚えていたのだ。あの出会いを。
初めての出会いを――――。
熱い感情が込み上げてくる。あとからあとから、とどめなく。
あふれ出す涙は喜びと感動に満ち、ひたむきな愛情に満ち溢れていた。
これは奇跡だ。
これこそが夢のようだった。
その事実だけで、今までの自分の想いは全て報われた気がした。
全ての感情が洗い流され、高耶に還っていく。
エゴも罪も許されない裏切りも、身体中の愛情も。
全てがここから始まり、ここへ辿り着く。
かたく、心まで抱き締めるように高耶を腕の中に抱え、直江はひたむきに繰り返し た。
あなただけを愛している、と。

高耶は深く、直江の腕の中に顔を埋めながら自ら強く抱き返した。
久しぶりの直江の温もりに泣き出しそうになる。
焦がれ続けていたこの熱が、いまはここにあるのだ。
いまはもう、何も隠さなくていいのだ。
顔をくしゃくしゃにして、高耶は零れ出る思いを享受する。



だって、こいつはオレのことが好きなんだ。
どうしようもなく好きなんだ。
その想いに負けないくらい、
オレも直江が好きなんだ。

どうしようもなく。
愛してるんだ。

全てに見放されても、オレには直江が。
直江だけが――――。




抱き合うふたりの頭上を、小さな雪が舞い降りる。
彷徨の果てにようやく溶け合ったふたつの心を、静かに祝福するかのごとく。










『泡沫の恋』《15》  END

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