泡沫の恋 《13》
 


泡沫の恋≪13≫



それからというもの、高耶は以前にも増して塞ぎ込む回数が多くなった。
大学や家では普通に振る舞っているつもりでも、やはりそんな空気はどうしたって回 りに伝染する。
元気がない。覇気がない。笑顔が曇っている。些細なことでイライラしがちだ。
美弥はそんな高耶を気遣って、何とか元気を出して貰おうとするのだが、今の高耶に とって美弥の笑顔はその度に心に突き刺さった。
いつだか直江に感じていた罪悪感が、今では美弥により強く感じるようになってし まっていたのである。
もはや理屈ではない。自分でもどうしようもないのだ。
理性と感情とは確かに別個に存在していて、そんな感情にいつまでも振り回されてい る自分が情けなかった。情けなくて仕方なかった。
美弥の兄として。強姦未遂の真犯人は絶対に許してはならない存在だ。それなのに。 あんなにも意気込んでいた報復の感情が、今ではどうだ。こんなにもナリを潜めてし まっている。あまつさえその相手に対してこんな感情を抱いているなんて。
高耶が今一番赦せないのは自分自身であった。
恋愛感情なんかに振り回され、きっと自分は腑抜けになってしまった。直江のキツイ 毒に全身が麻痺されて動けない。
たったこれだけのことに・・・神経をすり減らして生きていくのだろうか。
これから先・・・、一生?
この想いはこんなにも苦しいばかりなのに。


大学の帰り道、高耶は真っ直ぐ家に帰る気が起こらず、とぼとぼと駅に向かってい た。
適当な駅までの切符を買い、改札をくぐってろくに確認もせずにホームに到着した電 車に乗り込む。
どこでもいい。
どこか遠くに行きたかった。

ゆうに一時間以上は電車に揺られ、ようやく高耶は電車を降りた。
そこは見たこともない駅だった。
改札を通って外に出ると、もう太陽が傾き初めており、空は夕日で赤く染まってい る。
高耶はそのまま帰宅ラッシュ時で混雑する駅から遠ざかり、初めて訪れた町並みをぼ んやりと眺めながら歩いた。
もともと散歩は好きな方だ。どこともなく行く当てもなく、黙々と歩くのは嫌いじゃ ない。
どこかで蝉が鳴いている。気付けばもう夏休み間近だ。
この知らない土地でこのまま人混みに埋もれて消えてしまいたい。
高耶はふとそんなことを思った。

暫く歩いていると、小さな高台にある公園に着いた。高耶は息を付いて、側にあった 自販機でポカリを買った。
その公園には見渡しただけでも鉄棒と小さなジャングルジム、ふたつだけのブランコ しかなかった。
高耶はブランコに座って、ポカリのプルタブを開けて一気に喉に流し込んだ。
結構歩いたせいか冷えたポカリはいつもより美味しく感じ、高耶はほっと一息つく。
日はもう暮れかかり、真っ赤に燃えた太陽がビルの片隅に沈んでいくのが見えた。
ブランコの後ろ側からは、ここが高台ということもあって町並みが見渡せる。
ぼんやりと灯っていく明かりを見つめ、高耶はふと、直江に連れて行って貰って見た 夜景のことを思い出した。
あの日は雨が降っていた。雨で視界はサイアクで、夜景なんてろくに見えなかったけ れど。
それでも霞む中に滲み出すように灯っていた色とりどりの色彩は変わらない。
夜景を見ると、心が落ちつくと直江は言っていた。
好きだ、と。真摯な眼差しで告げられたその言葉。
罪悪感に押し潰されそうになりながら、それでもどうしてもあの優しさに惹かれた。
駄目だと叫ぶ自制すら粉砕するほど。気付けば直江のことが全てになっていた。
薄暗い空に浮かんだ半分の月を見上げ、高耶は思う。
直江は・・・、何を望んでいるのだろう。
もう、オレのことはいらないのだろうか。
もう、おまえの中ではぜんぶが終わってしまったんだろうか。
だから結婚するのだろうか。こんな気持ちのオレを置き去りにして。・・・・・・でも。
――――あなたを愛している。その気持ちは一生変わらない。
・・・・・・だったら。
もしそれがあいつの本当の本心なら。
答えを出さなければいけないのはオレの方なのかもしれない。
このまま終わりにするのか。この関係を、不毛と承知で続けていくのか。
すべてをリセットして、美弥とのささやかな幸福を守っていくのか。
自分が心を傾ける相手が、他には誰もいなかった―――今までのように。
(ちがう)
(そうじゃない・・・)
昔に、戻りたい。出来ることなら、直江と出会う以前に戻りたい。
もうすべてなかったことにしてしまいたかった。
こんな思いをするくらいなら。
(ちがう・・・・・・っ)
心がみんな、直江に持っていかれる・・・そのまえに・・・。
(・・・そうじゃなくて。オレが望んでいたのはそんなことじゃなくて・・・・・・っ)
―――戻りたい―――戻れない。
もう、もどれない。
もどれやしない。
時間に委ねて解決するのを待つだなんて狡いやり方で逃げてみも、変わりはしないの だ。
きっと、この想いが消えない限り、終わりはしないのだ。
こんなにも胸の奥で叫んでいるモノが、どうしようもないと悲鳴を上げている。
目に見えない誰かに赦しを請うている。
(オレは――・・・)

あの優しさが「慈愛」じゃないなんて。
ぜんぶおまえのエゴだったなんて。
オレは今でも思えないんだ。
優しかったおまえの仕種のひとつひとつが。言葉の端々から滲み出す微かな気遣い が。抱き寄せられた強い腕が、温もりが―――。
高耶はブランコの手摺りに頭を預け、苦しげに瞼を閉じた。
「どうしたって・・・消せやしないんだ。直江・・・・・・」

遠い場所から流れ出す現実。身体の奥から噴き出してくる真実。
オレはずっと知っていたんだ。
答えなんて初めから出ていた。
そう、分かっていたんだ。ただ赦せなかっただけだ。事実の重さに抗って、束の間の 夢を貪りたかっただけ。
だけど。
もう、誤魔化せない。自分の思いに嘘はつけない。
そのことが直江の結婚の件で身に染みて分かった。
高耶はゆっくりと瞼を開き、再び眼下の夜景を瞳に吸い込ませた。
そして静かに立ち上がる。

ただその「想い」のみが、向かう先を支える唯一の標のような。
手放せない証のような。
暗闇の中で手探りをして、微かな光の中で見えたのはたったひとつの真実だった。




「あぁ?!なんだって?」
受話器の向こう側から聞こえてきた高耶の台詞に、千秋は目を瞠った。ついでに耳も 疑った。だが、高耶はハッキリとこう言ったのである。
『直江の住所を教えて欲しいんだ。千秋なら知ってんだろ?』
「バッカ、おまえ、ついにキレたのか?まさかヤツの家に殴り込みに行こうってん じゃ」
『そんなんじゃねーよ』
「じゃあ、なんだよ」
『・・・・・・・・・』
沈黙が、長く通過する。その長さが、高耶の心の戸惑いと決心を表しているようで あった。
そしてようやく、決意したように高耶は語り出した。
『千秋、オレさ。おまえの案で報復を狙って直江に告白してオッケー貰って、腹に復 讐心抱えながらあいつと過ごしていくうちに・・・、自分でも無意識だったんだけど、 誰かに頼れることの安心感とか・・・依存心とか。そーゆー気持ちをだんだん感じるよ うになってったんだ。直江のそばはとても居心地が良かった。安心できた。・・・そん な風に思えたのは今まで美弥を抱えて独りで頑張ってたせいかもしれない。単に優し さに触れてひ弱になってただけかもしれない。別に頼れるならあいつじゃなくても良 かったのかもしれない。けど・・・けどさ、たぶん、あいつじゃなかったら、あんな風 にオレの心に直接語りかけてくるようなヤツじゃなかったら、こんな気持ちにはなら なかったと思うんだ』
「・・・・・・」
『復讐は復讐で終わってた。オレは目的を達成して、きっと今頃おまえと祝杯でも上 げてたのかも』
だけど、と高耶は小さく言葉をつなげ、
『直江は今まで散々オレたち兄妹をたらい回しにした挙げ句、厄介もの扱いした親戚 のヤツらとも、表向きだけ同情してきたその場限りの誰とも違ってた。あいつの言葉 には、いつだって命がこもってた。心からオレを思ってくれてた。それが分かってし まったから・・・』
「高耶・・・、それは」
『分かってる。あいつのオレに対する気持ちのせいだって分かってる。でも下心なん かじゃなかったと思うんだ。じゃなきゃあんな・・・』
あんなふうに、包む込むような優しさは得られなかった。もしかしたらそれも直江の 作戦のうちだったのかもしれないけれど。だとしても、その真心の優しさは嘘じゃな いって思うから。
それが、揺るぎない自信を持って言える唯一のことだった。
『あいつのやったことは今でも許せないし、許す気もない。けど、この気持ちは別な んだ』
直江を想う、この気持ちだけは。
「直江のことが・・・好きなのか」
千秋は静かに、確かめるように問うた。自分でも驚くくらいの低い声音だった。 「そうなのか、高耶」
『・・・本当のこと・・・知るまえだったんだ。自覚したのは。だから・・・必死になってあ いつを憎もうとした。あいつは最悪だって、何度も何度もそう自分に言い聞かせた。 当たり前だ、許せるはずないって・・・・・・それでも』
消えなかった。この気持ちだけは、どうしても。
『消えないんだ・・・・・・馬鹿みたいで笑っちまう・・・。自分でも情けなくて泣きたくな るよ・・・・・・あんな酷いやつなのに。でも理屈じゃないんだ。あいつの吐き出すような 告白聞いてからは・・・もう頭の中そればっかでさ・・・。どうしようも・・・ないん・・・だ』
受話器からは、押し殺した嗚咽が混じっていた。
くぐもった声は堪えるように何度も掠れ、途切れがちになる。
『・・・好き・・・なんだ。直江のこと、どうしても』
こんな想いは初めてだった。
誰かを想って、こんなにも自分が変わってしまうなんて思いもしなかった。
高耶は噛み締めるように告げる。
『オレのこと軽蔑しても構わない。美弥の兄として、許されない選択だって分かって る。・・・でも、今は行かせて欲しい』
答えを出すために。
『あいつの住所、教えてくれ千秋。頼む・・・』
「高耶・・・」
『行かせてくれ・・・』
直江のもとに。
高耶の言葉はまるで哀願に似ていた。
そう決断する自分を赦して欲しい。見届けて欲しい。厳しくてもいい。詰っても構わ ない。行ってもまた傷つくだけかもしれない。この決断は、間違っているかもしれな いけれど。
深い溜息をひとつ吐き、千秋は頭を掻きながら苦笑してこう言ったのだった。
「そう言い出すんじゃないかってな、思ってたよ。こんバカ」


                         ◆◇◆◇


8時を過ぎた頃、小雨が降り出した。
予報では一日中快晴だといっていたのだが、風が強かったせいか雲の流れが思ったよ り早かったらしい。
今日は傘を持っていないのにとぼやく麻衣子と共に料亭へ入り、直江はいつものよう に美味しいとは感じられない料理を少な目に口に運びながら、笑う麻衣子に適当に話 を合わせていた。
最近では麻衣子は結婚式の話の他に、直江の好きな食べ物から細かい趣味にかけてま で話題を振ってくる。良かったら今度食事を作りに行きますよ、という麻衣子の言葉 に、直江はふと、以前同じようなことを高耶が言ってくれていたことを思い出した。
驚きとともに全身に広がった感動。
あの時に初めて見せてくれた不器用な笑顔。
愛しくて愛しくて、抱き締めたくなる衝動をなんとか抑え込んだ。
もう、その約束すら意味のないものになってしまったけれど・・・。
直江が麻衣子との結婚を承知したのは、高耶とのことを吹っ切ることは不可能でも、 ひとときの気の紛れになるかと思った部分が大きかったためだった。
このまえ高耶は、麻衣子との結婚は自分への裏切りだと言っていた。自分ではなく麻 衣子を選んだのだ、と。
そんなわけはない。この心は高耶にしかない。
(酷い言葉で言うと、俺はこの女を利用しているに過ぎない)
一時の慰めのための道具だと思っている。高耶に対する叶わない想いを慰めるための ――。
(今更だ。自分が最悪な男だということくらい、とうの昔から自覚している)
だから、酷い言葉で行為で高耶を傷つけてしまった。
あんなに大事にしたいと思っているのに。高耶にだけは、優しい存在でありたかった のに。
たったひとりの、愛するひとなのに―――・・・。
(高耶さん・・・)

肉体は重い。
魂だけで飛んで行けたらいいのに・・・。




傘がないという麻衣子を家まで送り、ようやく自宅まで帰ってきた頃には11時半を 回っていた。
雨は次第にひどくなり、たぶんこの分では一晩中降り続きそうな気配だ。
直江はひとりになってから銜えていた煙草を車の備え付けの灰皿へ揉み消し、ガレー ジに少し乱暴に停車して車を降りた。
スラックスのポケットを探り鍵を取り出しながら、ガレージとは逆の玄関側まで来た 時だった。
薄暗い玄関の前に、誰かが蹲っている。
この雨の中、傘もささずに随分長い間そうしていたのだろうか、ずぶ濡れになってい た。
雨に打たれ、額に張り付いた黒髪。両脚を抱えて蹲っている見覚えのある背格好。
直江は目を見開いた。
―――デジャブに襲われる。
あれは4年前の冬だ。少年がたった独りで蹲っていた。そう、あの時。あなたは小さ な背中を丸め、細い腕で必死に自分を抱き締めていた。あのシーンと重なる。あれは あなただ。あの日から、俺はたった一度だって忘れたことなんてなかった。あなたに 向けられた瞳の強さ、無垢な輝きの中に存在した孤独、全身の痛々しさ。俺はあなた を一度だって―――――。
直江の手の中から鍵が滑り落ちる。
驚愕し、直江は心の底からその名前を叫んだ。
「高耶さん・・・!」
信じがたい思いで目を瞠る直江の視線の先で、ゆっくりと高耶が顔を上げる。
初夏とはいえ、数時間夜の冷たい雨に晒され続けた高耶の頬は薄闇の中で青白く映 り、唇も細かく震えていた。
直江を見とめた高耶の瞳が揺れ、その唇から弱々しい声が洩れた。
「なおえ・・・」
瞬間、言葉よりも先に身体が動いていた。
座り込んだ高耶の腕を引き上げ、めいっぱい抱きすくめる。
雨に打たれながら、そのまま激しく口づけた。
困惑と表現しがたい熱いものが込み上げてくる。止まらない止められない。
直江は目頭が熱くなってくるのを必死にこらえ、かたく目を閉じた。
「高耶さん・・・・・・高耶さん・・・っ」
どうしてこんなところにいたのか。なぜ俺を待っていたのか。そんなことはもうどう でもよくなる。
この存在が死ぬほど愛しい。
こんな愛しいひとを他に知らない・・・!
「なお、え・・・・・・」
何度も自分の名を呼びきつく抱き締めてくる直江に応えるように、高耶も直江の背中 に腕をまわし、抱き締めた。
こうやって抱き合うのは、思い返すと初めてだった。
確かめるように、噛み締めるように。高耶は直江の背中を愛しげに掻き抱き、深く なっていく口づけに夢中で応える。
雨も吐息も想いもすべてが混じり合い、ひとつの口づけに解けていくようだった。 直江の温もりを感じながら高耶は思う。
(ごめん、美弥・・・)

ずっと触れたかったんだ。
この温もりで包み込んで欲しかった。
あの時と同じ強さで、力いっぱい抱き締めて欲しかった・・・・・・!
心はいつも悲鳴を上げていた。
直江が好きなんだ、と。
ただその言葉を繰り返し。



明かりも点けていない寝室で、ふたつ分の影が揺れている。
雨の降りつける音以外は、互いの鼓動と切ない息づかいだけが鼓膜を震わせていた。
「なお、え・・・。直江・・・ッ」
高耶は泣きそうな声で直江を見上げた。鳶色の瞳を探そうと必死に縋り付く。
組み敷かれたまま瞳を揺らす高耶を見下ろし、直江は愛おしいげにキスを落とした。
頬に瞼に、全身に。
「高耶さん・・・」
「なお・・・・・・」
「なにも言わないで」
直江の頬に涙が伝うのを、高耶は見た。
「愛しています・・・、高耶さん」
心からそう告げた。
震える腕で、何かから守ろうとするかのように直江は高耶を抱き締める。
首筋に降ってくる熱い雫を感じながら、高耶の瞳からも涙があふれた。
両手をかたく絡め合い、滲み出す汗さえ愛しげに口づける。
優しいばかりのその行為に、高耶は全身を大きく震わせた。
「あなたを愛している。・・・もう死んでもいい」
「・・・ば・・・か・・・・・・」

・・・雨が降る。
心身に、あつくて泣き出しそうな切ない雨が。









『泡沫の恋』《13》  END

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