泡沫の恋 《12》
 


泡沫の恋≪12≫



今年は雨が多いらしい。
桜の季節はあっという間に過ぎ、もうじき梅雨に突入しようとしていた。
あれから高耶は直江とは一切接触は無かった。千秋に言われたからというのではな く、お互いに避けているというのでもない。初めから二人の間には何も無かった。そ んなふうに振る舞っていたといった方が正しい。
二人はただの助教授とその教え子のひとり。そんな関係が思えば当然で、何より自然 だった。
時間は期待と恐怖を裏切り、ごく自然に残酷に過ぎていく。それで良かったのだ、と 思う。高耶にはそれは何よりの安寧だった。
その方がいいのだ。時間に委ねる。それが今は何よりの解決方法だと思った。
直江がどう思っているのかは分からない。
もう、自分のことは完全に諦めたのかも分からない。
でもいい。そのほうがいい。
もう直江と関わるのは、正直、恐い。



「どうしたんだ〜?すごい量だな」
千秋は高耶の両手いっぱいに抱えられた本の山を見て、からかうように笑った。ポン ポンと本の表を叩いたら、思いきり睨みが飛んでくる。その微かな刺激にさえ、本の 重量を刺激されて辛いらしい。
「試験までもう間もないんだ。今から気張っても手遅れだと思うぞ?」
「ちがう、これはレポートの分。随分たまっちまったからな」
高耶はドサッと抱えた資料用の本を図書館の机に置いて、ふうと嘆息する。実際試験 のことを忘れきっていた高耶だ。現在かなり、いや非常にマズイ状態なのである。
「間に合うのか?それ」
「間に合わせてみせる。いいからあっち行ってろよ」
「へいへい」
といいつつ千秋は高耶の真後ろの席に座り込んで、マンガ雑誌を開いて読み始めた。
もちろん持参したものだ。試験に追われる学生連中の屯する学校の図書館で、いい度 胸である。
「そういや、おまえさぁ」
「・・・うるせーな。気が散るだろ。話かけんなよ」
「今つき合ってるコがいるって、マジ?」
「・・・・・・。・・・は?」
無視して黙々とシャーペンを走らせていた高耶は、一瞬ポカンとして思わず千秋の方 を振り返った。
「なんだよそれ」
「いや、さっき食堂で女の子らが話してたのを偶然聞いちまってよ。おまえ、合コン 行ったんだって?」
「ああ・・・、遠藤に誘われて一回だけ」
「そん時いい雰囲気になったコとデキちまった、って話してたぜ?そのコらが」
「はぁ?なんだよそれ。いい雰囲気になったコって誰だよ」
身に覚えのないことで噂されているらしいことに驚く。誰だ、そんなデマを語ってい るのは。
高耶が合コンでちゃんと話した女子と言えば稲葉朱実くらいだ。だが朱実はそんなこ とをする人間には見えないし、第一いい雰囲気ってどこをどう見ればそうなるのか。 あの時の高耶といえば、ただもくもくとビールを飲んでいただけなのに。
「ウワサのネタにされてんなァ。まぁ確かにおまえって楽しそうだけど」
「おい」
「だっておまえ、ぜんぜん女っ気ねぇだろ?よくねーぞ、若い健全な男が」
そういわれても、寄ってくるのは(何故か)男ばかりだったので仕様がないじゃない か。
高耶はぶすくれてしまう。女運どころか男運も悪かったが・・・。
「なんにしても。しばらくは気ィつけろよ」
「ん?」
「あんま妙な噂流されんなよってコト」
「なんだよ妙な噂って」
「いや、下手に刺激を与えない方がいいだろ?やっぱ。せめて完全に結婚しちまうま では油断できねーし」
「・・・・・・。・・・誰のことを・・・言ってるんだ・・・?」
高耶は千秋の後ろ姿を凝視した。
なぜだか胸が騒ぐ。
「結婚って誰が」
「・・・前に言ったろ?浅岡教授の一人娘と奴の縁談話。あれ、本格的に結婚って形で 決まったらしいぜ」
「―――――」
「ま、これで奴も前みたくお前に近づかなくなるだろーしな。なんにしてもメデタ イってことで・・・・・・、高耶?」
振り返ると、高耶はバサバサと開いた資料を閉じて帰り仕度をしている。なんだ急に ?と千秋が怪訝に思っていると、高耶はそのまま何も言わずに足早に図書館を出て いってしまった。
残された千秋は、眼鏡を額へと押し上げながら、
「やっぱまだ少し、早かったか・・・?」
次の日にまた岩のように口を閉ざして落ち込まれたらどうしよう、などど思いなが ら、暫く雑誌のページをパラパラめくっていたが。
実際のところ、高耶の本心はどうだったのだろう、とふと思った。
高耶は真実を聞かさせる以前、直江のことをどう思っていたのだろうか。
妹を強姦未遂した憎い犯人・・・。報復を誓った恨むべき相手・・・。
(・・・・・・落ち込む?)
不意に千秋は先程の自分の考えに違和感を覚えた。
恨んでいる相手に正式に結婚が決まったからと言って、何を落ち込むことがあるん だ。
別に高耶には、心乱される理由なんてないじゃないか。ないはず、だ。
なら、何故あいつは話を聞いた途端、動揺したようにいきなり出ていった?
いったい何処へ行ったのだ。
「・・・・・・・・・」
千秋はバサッと雑誌を投げ出し、重い溜息をついた。





結婚?
だれが?
直江が?
結婚?
――――なんだよそれ・・・ッ!
高耶は気が付くと走り出していた。
いままで抑えていた感情が一気に爆発したかのような感じだった。
酷く乱れた、千々に歪んだ感情。
諦めと切なさを覆すその感情は、明らかに怒気だった。
ふつふつと、怒りが込み上げてくる。
やっぱり全部嘘だったのか。
結婚するなんて。
それでオレを置いて幸せになろうって?
よくもそんなこと・・・!
「あのヤロウ・・・!」
なんのために今までこんなにも悩んで泣いて傷ついて。全部おまえのためじゃないか !
それなのに・・・、
(オレのこと愛してるって言ったくせに、何なんだよ・・・・・・!)
高耶は心で吐き散らした。
苦しくて憎くて悔しくて、気がおかしくなりそうだ。
「ちくしょう・・・ッ!」

オレを置いて別の女と幸福になろうなんて。そんなの絶対に許さない・・・っ。


                         ◆◇◆◇


どんよりと曇った空を見上げ、直江は軽く吐息した。
このまま雨になってくれたらそっちの方がいい。
正直もううんざりだった。
今もまた、自分の隣で嬉しそうに結婚式へのプランを練っている麻衣子を見ていると いい加減にしてくれと言いたくなる。なにも大学にまで押し掛けて来なくてもいいだ ろう。
しかも麻衣子自身はそれを迷惑だとは思っていないようだ。
いらないことに兄が余計なことを吹き込んでくれたおかげで、以前にも増して麻衣子 が積極的に大学まで来る回数が多くなってしまった。
彼女が言うには、結婚までの時間を少しでも一緒に過ごしたいだとか、ここまで出向 かなければなかなか直江の仕事に空きが出ないとかいうのが理由らしいが。
結婚が正式に決まった途端にこうだ。今までの謙虚さはナリを潜め、女の本性が出始 めたらしい。
(もう今から妻気取りか)
などど自分勝手なことを考えながら、直江は再び溜息をついて煙草に火を点けた。
ここのところ、また煙草の量が増えた気がする。そう指摘したのは綾子だったか。
いっそ肺ガンにでもならないものかと物騒なことを考えながら、直江は麻衣子に適当 な理由をつけて席を立った。
落ち着いて吸いたかったので、取り敢えず自分の研究室に向かう。
だがいくらも経たないうちに後方から麻衣子の呼ぶ声がして、直江は額を押さえなが ら振り返った。
「待ってください、直江さん!」
「どうしたんですか?まだ何か?」
幾分迷惑そうな声音で対応する。それに気付いていないのか、麻衣子は構わず、
「これ、この資料。机の上に忘れていったでしょう?研究室に戻るのなら必要かと 思って」
「ああ・・・。それはわざわざどうも」
「じゃあ、お仕事終わるの待ってますね。今夜は何処に連れて行ってくれるのか楽し みにしてます」
麻衣子はにっこり微笑み、時折こちらをチラチラ振り返りながら去っていった。
「・・・ハアッ」
(疲れる女だ・・・)
なんであんな女が結婚相手なのか。あの手の女はきっと独占欲が強い。
直江の好みはドライで必要以上に干渉しない、こちらを煩わせない頭のいい女だ。
ベッドの上でだけ情熱的な女だ。麻衣子は全くの正反対と言えた。
面倒だが、自分で蒔いた種だ。後悔してももう遅い。
直江は麻衣子に手渡された資料をしばし冷めた目で見据え、小脇に抱えると研究室に 向かうべく歩き出そうとした。
だが。
弾かれたように足が止まる。
直江はみるみる顔色を変え、その場に佇んだ。
廊下の先に、立っている人物の姿がある。
目に力を込めてこちらを睨み付け、仁王立ちする高耶の姿が。

直江は息を呑んだ。
高耶の瞳は明らかに憤っていた。
先週すれ違った時のあの戸惑いが入り交じった瞳はすでにない。
今ここに在るのは憎しみさえ篭もっている、熱く煮えたぎるようなキツイ眼差しだっ た。
「高耶・・・さん・・・」
ああ、ついに己は断罪される時がきたのだ、と。直江はひどく落ち着いた気持ちでそ う思った。
高耶の双眸に灼き切られ、全てが終われるのならそれは幸福ですらあった。
あなたに罰せられる日を待っていた。
直江は静かに、高耶を見つめた。そして彼の言葉を待つ。
高耶は細かく震えていた。切れるほど噛み締めた唇は痛々しく赤く染まっている。
ひたすら睨み付け、何かを堪えている風な高耶を見て、直江はようやく違和感に気が 付いた。
どこか様子がおかしい。
「・・・高耶さん?」
どうしたんですか、と問う前に、高耶の低く押し殺したような声音が聞こえてきた。
「おまえは・・・・・・あんなにオレを惑わせて困らせて・・・散々振り回して・・・、手酷いや り方で裏切ったくせに・・・・・・、今またオレを裏切って逃げるのか」
その言葉に直江は目を瞠った。
「嘘じゃないって・・・・・・、あの言葉だけは唯一嘘じゃないって、・・・そう信じてたの に」
「高耶さん・・・?」
「なのにおまえは、それさえ裏切るのか・・・。オレのことはやっぱり単なる遊びに過 ぎなかったのかよ・・・!あんなひどいことまでしておいて!」
「高耶さ・・・」
「おまえはやっぱり女を選ぶんじゃないか!愛だなんて・・・嘘ついて・・・っ!」
泣きそうな声で悲鳴を上げた高耶の台詞に、直江は耳を疑った。何だって?いまなん と言った?
「オレの最後の砦すら簡単に壊して・・・・・・こんな簡単に去っていくなんて許さない。 ぜったいに許さない!」
「!」
瞬間、直江は高耶の腕を強引に掴むとそのまま足早に歩き出した。
振り払おうとする高耶の力をより握力を込めて黙らせ、放せと喚くのを無視して研究 室へと無理矢理引きずって行く。
何事かと振り返っていく学生を後目に、直江は乱暴にドアを開けると荒々しく高耶を 中に突き飛ばした。
「・・・ッ」
よろけて床に膝をついた高耶の肩を乱暴に掴み、直江は目を見開いていく高耶の唇に いきなり激しく口づけてきた。
「・・・!」
驚愕で高耶の瞳がはち切れるほど見開かれる。
逃げようと抗う高耶の動きを胸に抱き込んで押さえ付け、後頭部を手で支えて首の動 きさえも封じる。
そのまま深く、口腔内を貪った。
「ん・・・ッ、・・・ぅ・・・んっ」
直江の袖をきつく握り締めた高耶の指が、痺れたように震える。
吐息さえも貪ろうとする直江の口づけに、拒絶感からかきつく伏せた高耶の目尻から 涙が滲んだ。
実際にひどいキスだった。優しさなどは欠片もなかった。
このまま喰らわれるような錯覚に襲われ、本能的な恐怖に高耶は必死になってしがみ つく。
絡まる舌も混じり合う唾液も。直江は我を忘れてひたすら貪り嚥下する。
その強引で激しい接吻は、高耶の身体から完全に力が抜けてしまっても続けられた。
まるで嵐のようだ。
そこには直江の言葉のない叫びがあったのかもしれない。
高耶は滲んでくる涙を堪えることが出来ず、やがて服の中に侵入してきた熱い手のひ らに脇腹から胸へと撫で上げられるのを感じて大きく震えながら仰け反った。
荒い息を繰り返しながら、それでも直江は口づけを解かない。
「ぁ・・・っや、め・・・!」
高耶は堅く目を閉じ、逃れようと必死にかぶりを振った。
「も・・・、やめ・・・てくれ・・・!」
その悲鳴で、ようやく直江は唇を解放した。
軽く肩で息をしながら、高耶の頬に伝う涙を見て痛そうに目を細める。
高耶は首を何度も振りながら、なんで、どうしてと叫んだ。抱き込まれた姿勢のま ま、払いのけようと藻掻きながら、
「なん・・・で・・・、こんなことすんだよ・・・ッ!もうやめてくれよ・・・これ以上オレを掻 き回すなよッ」
「高耶さん」
「結婚するくせに・・・!オレよりあの女を選んだくせに・・・っ!」
直江の胸に顔を埋め、高耶は吐き出すように叫んだ。
これが本心だった。直江が結婚すると聞いて、真っ先に高耶を捉えた感情は、麻衣子 に対するどうしようもない嫉妬だった。
その瞬間、自分は捨てられたとさえ、思ったのだ。
「分かんねーよおまえ・・・!いったいなんなんだよォ!」
喚きながら、混乱した高耶はひたすら首を振った。直江の気持ちが分からなかった。
いったい何を考えているのか。
麻衣子と結婚するくせに、どうしてこんなことをするのか・・・!
もう、何もかもがぐちゃぐちゃで、直江を奪った麻衣子が憎くて悔しくて悔しくて、 それだけが思考の全てになり、溢れだす感情を押し込めることが出来ない。
「高耶さん・・・、どうしてそんなことを言うんですか」
押し殺した声で直江は呻いた。
「どうしてそんな期待を持たせるようなことを言うの。あなたは私を憎んでいるはず だ」
「ああ、憎いさ・・・!こんなにも!」
「だったらなぜ・・・!なぜ泣くんですか。どうして―――こんなにも・・・!」
直江は激しく高耶を掻き抱きながら、慟哭をこらえるように肩に顔を埋める。
呟くような、掠れた声が喉をすり抜けた。
「あなたは私を憎んでいるんでしょう・・・?恨んでいるはずだ。あなたは俺を断罪し なくてはならない。そうでしょう」
「・・・そう・・・だ」
直江は耐えるように一度、堅く眼を伏せた。高耶の中の憎しみを再確認し、辛苦を味 わうように言葉を呑み込む。
そしてゆっくりと高耶を解放すると、立ち上がり、静かにこう告げたのだった。
「あなたを愛している。その気持ちは一生変わらない」
「・・・・・・・・・」
直江はそのまま振り切るように背を向け、部屋を後にする。
床に座り込んだまま、閉じていくドアの向こう側に消える直江の背中を見送り、高耶 は両手をきつく握り締めた。
閉じられたドアを見据えながら、伝う涙もそのままに、きつく唇を噛む。
切れた唇はとうとう血を滲ませ、口中に鉄の味を広がらせていた。
「なんで・・・だよ・・・。・・・わかんねーよ・・・。じゃあどうしたらいいんだよ・・・・・ ・!」

(こんなのはもうイヤだ―――・・・!)









『泡沫の恋』《12》  END

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