泡沫の恋 《11》
 


泡沫の恋≪11≫



時間の感覚が曖昧だった。
分刻みで刻一刻と退化していく脳が思考を拒み、同時に身体までもが動作を停止す る。
ヒトとはおかしなもので、精神にダメージを食らうと、ごく当たり前だった生きると いう行為さえ拒否してしまうものらしい。
そうやって全てを投げ出して放棄して死んでいく人間は、最期の瞬間になにを思うの だろう。
愛とはいかに儚く自分本位な感情であるのか。
愛とは所詮自己満足なくしては成り立たない。
もし通じ合ったとしても。次の瞬間には砂のように両手からこぼれ落ちていく。
押しつける一方的な愛では、相手を縛ることすら出来ない。
・・・・・・ちがう。縛りたかったわけではない。
どうしても手に入れたかったのは、そう願ったのは、ともに生きて癒したかったから だ。
あの孤独な人のそばに、いたかったからだ。
あなたのそばに、誰よりも近くで。
願ったのはそれだけだったのに。どうして―――こんなことに。
俺じゃ駄目なのか。どうして俺では駄目なのか。何度も反芻し、何度も繰り返した。
あなたに必要としてほしい。誰よりも近くで支えたい。あなたに俺を求めて欲しい ・・・!
頭の中はこんなにも彼のことでいっぱいで、いつか爆発する危険性を帯びていた。狂 気と正常の危うい境界線。それの瓦解が少し早かっただけ。自業自得だ―――。 死んでしまえ。こんな最悪な人間。今すぐあのひとの前から消え失せなくては。
あなたを守りたかったはずのに、結局傷つけることしかできなかった。
手酷いやり方で、もっとも最悪な方法で、あなたの大切な者を利用して自分のエゴを 優先した。そのためには手段を選ばなかった。
下劣すぎて振り返ることもできない。何かに操られていたように、仰木高耶と言う人 物に心酔し全てになり、愛が肥大してエゴに変わり、結果取り返しの付かない傷を負 わせた。
死んでしまえ。俺は彼にとって有害でしかない。
俺にあのひとを愛する資格など無い。あのひとの前から一刻も早く消え去れ。消えて なくなれ。
愛など言い訳にしか過ぎない。そんなモノを主張して赦しを請おうとでも思ったのだ ろうか。ふざけるにも程がある・・・・・・!

――――ずっとオレを騙してたのか!
――――信じてたのに・・・!

俺にはあのひとを愛する資格など・・・ない。
「高耶さん・・・・・・」




「ちょっと直江!いつまでそうしてるつもりなのよ」
ソファーに横になって項垂れている直江の頭上から、高くて張りのある声音が降って きた。
だがなんの反応も返さない直江は、声の主を完全に無視して顔を覆っている。
室内は厚い遮光カーテンが引かれており、日中だというのにどんよりと薄暗い。
珍しく落ち込んでいる風な直江を怪訝に思って綾子は首を傾げた。あまりにも「らし く」ない。
「もう、なにダラダラしてんの。どうしたのよ。疲れてるの?それとも何かあったわ け?」
腰に手を当て、綾子は上半身を屈めて直江を覗き込んだ。
実際綾子はこんな直江を見るのは初めてだった。落ち込む姿など、普段は他人に見せ るような真似はしたことがない直江だ。
いつもはビシッとキめているスーツも、今日はだらしなく着崩れ、辛うじてネクタイ が首に引っかかっているといった状態である。
せめて上着を脱いでから横になればいいものを。このままでは確実に皺になってしま う。
「・・・・・・。まぁいいけど。私おじ様からあんたに、伝言預かってきてるのよね。起き てるのは分かってるんだからちゃんと聞いてよ」
「・・・・・・」
やはり何も答えない直江に嘆息して、綾子は諦めて視線の先で背を向けている広い背 中を睨み付けながら言った。
「そのまま伝えるわよ。例の浅岡さんとの縁談話、このままオーケーするからそのつ もりでいろ。明後日には正式に結婚の日取りや予定を立てるから、麻衣子さんを連れ て実家に帰ってこい。・・・だそうよ」
「・・・・・・」
どうでもいい。とでも言いたげな背中に、綾子はなんだかムカムカしてきた。
「アンタね、麻衣子さんと結婚する気ないんだったらキッパリ断りなさいよね!そん なの相手に失礼でしょ。あたしが見た限りでも、彼女、あんたのこと本気なのよ」
綾子は何度か、大学まで直江を迎えに来ている麻衣子の姿を目にしたことがあった。
ハタで見ていても、麻衣子が直江に向けている視線が恋愛感情だというくらい、誰で も察することが出来た。それほどあからさまだったと言える。
当然直江もそのことに気付いていないわけがなかった。
「誠実になりなさいよ。じゃないと麻衣子さんが可愛そうよ。彼女はあんたが散々遊 んできた女達とは違うんだから」
「・・・・・・違う?」
ようやくくぐもった声が背中から発せられた。だがそれはどこか嘲るような声音だっ た。
「どこが違うというんだ・・・。女なんてみんな同じだ。俺の容姿や職種を目当てに、 砂糖菓子と思い込んで群がってくる蟻と同じだ」
「・・・アンタね」
緩慢に身を起こすと、直江は暗く濁った目でどこか遠くを見据えるような眼差しで、 呟くように言った。
「・・・別に構わないさ。そんなにこんなロクデナシが好きというなら結婚してやる。 蟻に埋もれて骨の髄まで貪られるのも悪くない」
「なに言ってんのよ直江・・・」
「女は強かで、自分の欲望に忠実だ。・・・欲しいのは俺じゃなくて俺の妻になると言 う事実そのものなんだろう。愛しているのはそんな理想のみに過ぎない」
直江の女になりたがる女性は数多くいた。一夜限りでもベッドを共に出来ることを悦 びと感じ、それを誇ってさえいたことを直江は知っていた。
くだらない、と思う。
でもそれすら今となってはどうだっていい。
もう、どうだっていい。こんな己のことなど興味ない。
「父に伝えてくれ。明日の午後には彼女と同伴でそちらに向かう、と」
握りしめた拳は冷えて固まっている。
同時に心臓まで冷えていくのを、朧気に感じ、直江にはそんな己が小気味よくさえ あった。

「いっそこのまま、死んでしまえ」



                        ◆◇◆◇



四限目終了とともに高耶は席を立った。
今日の講義はこれで終わりだ。ざわつく教室から早々に席を立ち、この場を一刻も早 く立ち去ろうとした時だった。
ちょうど後ろのドアから出たところで、目の前に前方のドアから出てきた直江助教授 が歩いてきていた。
高耶は無意識に身体を竦め、その場に固まった。目を大きく見開き、息を止める。
四限目は直江の授業だったのである。
張りつめた空間で一瞬重なった視線。
張り裂けそうになる心臓。
だが直江は無表情に視線を逸らすと、そのまま高耶の前を横切っていってしまった。
高耶はしばらく、動けない。
気が付くと震えて出していて、耐えるように唇を噛み締めるのが精一杯だった。

「仰木ー?なに入り口で固まってンの?通行の邪魔だぜ」
我に返ると、背後から遠藤が肩を叩きながら覗き込んでいた。
「あ・・・、わるい」
「昼間っから寝てんなよ」
遠藤は笑いながら軽く頭をゴツいてくる。高耶もようやく笑みを返すことが出来た。
ふたりは並んで歩きながら、しばらく他愛ない会話をしていたが、不意に遠藤は目を 輝かせてこんなことを言ってきた。
「そういえばさ、仰木って今彼女とかいる?」
「いや・・・、いないけど」
「んじゃ、合コンとか興味ない?今矢崎とメンバー集めててさ」
「合コン?」
「彼女いないんなら尚更欲しいだろ?出会い!今回は結構いい子揃えてるって話だ ぜ〜」
うしし、と不気味に笑いながら遠藤は今から鼻息が荒い。
(合コンか・・・)
そういえば大学に入ったというのに、そういった女の子たちと遊んだことは一度もな かった。サークルにも入っていないので、出会いなんて皆無だったのである。
高耶がこれまで費やしてきた時間を振り返ってみると、甦ったのは直江に対する復讐 心と、疑念と、少しずつ育っていった儚い恋情と・・・。
高耶はプルッと首を振る。
(もうあいつのことなんて考えるな!)
千秋にも言われたじゃないか。もう近づくな、もう忘れろ、と。
言われるまでもない。もうあんなヤツのことなんて忘れるさ。あんな最低男。あんな 裏切り者。忘れてやるさ!
耳に未だ残るあの慟哭も。絞り出すように吐き出された告白も。
ぜんぶ忘れる。そのほうがいいのは分かってる。忘れる。あいつとのすべて。
オレは、いまならまだ、忘れられる。
擦り切れた想いも。押し寄せる痛みも―――。
振り切るように、高耶は顔を上げた。
「遠藤。オレもそれ、行っていいか?」
「マジか?!うおっし!仰木が来るって知ったらもっと女の子の集まり良くなんぜー !」
んじゃ、今夜7時にこの場所でな!と、遠藤は高耶に地図の書いた紙切れを渡すと、 携帯をかけながら走り出して行ってしまった。
なんでオレが来たら女の子が集まるんだ?などと鈍いことを考えながら、高耶はその 時間までの暇を潰すために図書館に向かった。
だがそこを選んだことを、早くも後悔することになったのは、図書館の入り口にある 傘立ての中に自分の安物傘を見つけた時であった。
あれは何日前のことだっただろう。雨の降る中、直江を待ちくたびれてこの図書館で 眠り込んでしまった。それから慌てた直江がようやく迎えに来て、目を覚ましたオレ に優しく笑いかけた。お待たせしてすみません、と。息を切らしながら、スーツを雨 に濡れさせて。
思えば直江はいつだってオレに優しかった。大人で誠実で、そして真摯だった。
その夜車の中で初めて奪われた口付けも。本当は、涙が出るほど嬉しかった。
深く抱き込まれ、甘い眩暈のなかで噴き出した縋りたくなる衝動を、だけどなんとか 封じ込めた。逃げ出すことで誤魔化した。
オレは直江が恐かったのかもしれない。いや、そうじゃなくて、きっと直江に対する 想いが深くなることを恐れたのだ。直江が全てになってしまうことが恐かったんだ。 そう本能で察した。
自分の想いが、恐かったのだ。
「そんな・・・こと、いまさら・・・」
いまさら気付いても、もう仕方ないことだった。直江の真実を知らないままでいられ たら、きっと素直になれないままでもあいつを受け入れることができたんだろう。何 も、知らなければ。
もう戻れやしない。
オレはあいつを憎まなきゃならない。今度こそ。

図書館を後にし、暗く沈んでいきそうになる自分を振りきるように駅前をうろつい て、ようやく約束の時間になると、高耶は遠藤に渡された紙切れを頼りに、商店街の 外れの、少々入り組んだ路地にある居酒屋に向かった。
暖簾をくぐった先には、すでに何人もの団体とおぼしき学生連中が奥のテーブルを陣 取っているのが見えた。
何人か見覚えのある顔が並んでいる先に遠藤や矢崎を見つけ、高耶はそのテーブルに 近づいた。瞬間、きゃーといった奇声が発せられ、ぎょっとなった高耶をいきなり数 人の女の子連中が囲んできたものだからたまらない。
「な、なんだいったい?」
「おーおー、さすが仰木くん。よくおモテになって」
からかう風に遠藤がやってきて、見るともうだいぶ出来上がっているらしく、目が幾 分妖しく据わっている。
自分を囲む女子群も、普段ならお近づきになれない(怖くて声をかけられない)仰木 高耶の登場に勝手に盛り上がっている。ここぞとばかりに話しかけられ、高耶は正直 閉口してしまった。彼女らもすでに酔っぱらっているのか。
「仰木くんだーホンモノだぁー」
「間近で見たの初めて!やだ、やっぱカッコイイ〜」
「まつげ長いよね。ほっぺもすべすべ」
「こっちきて一緒に飲もうよー」
一気に捲し立てられ、隅の女子が固まる集団に強引に引っ張られてしまった。助けを 求めるように遠藤たちを見たが、彼らは彼らでビールをジョッキで一気飲みしながら 騒いでいて気付いてくれない(いや、ある意味普段女っ気ゼロの高耶への嫌がらせか もしれない)。
そうして女子の輪に囲まれていた高耶だったが、五分もしないうちに席を立って逃げ 出してしまった。不満の声が上がったが、聞こえないフリをした。あのがっつくよう なオーラはなんなんだ。怖すぎる。
本気で引いてしまった高耶は、ビールの入ったグラス片手にそそくさと人数の少ない テーブルに移動した。
そうしてようやく一息ついていると、斜め前の席からクスクス笑い声が聞こえた。怪 訝に思って見ると、どこかで見た顔だった。記憶を辿っていくと、確かゼミが一緒の 稲葉朱実だったか。
「仰木くん、すごい人気だね」
朱実は笑いながら高耶の真向かいに移動してきた。先程の集団の中に朱実は加わって いなかったのか、そういえば遠藤たちと飲んでいたようだった。この朱実とも、実際 は挨拶程度しかしたことはない。話しかけられ、高耶は軽く驚いた。
「まさか。物珍しいだけだろ」
「仰木くんに憧れてるコって結構多いんだよー。気付いてないの?」
「ぜんぜん」
「仰木くんってケッコー天然?」
朱実は声を上げて笑う。ついでにその隣にいた遠藤にも笑われて、高耶はちょっと ムッとなりながらビールをあおった。酒はあんまり好きじゃないが、つき合いだから 仕方ない。
「でもオレ苦手なんだよな、あーゆーの」
「そりゃあんな大勢で迫られりゃーな。モテる顔で生まれてきたサガだ。諦めろよ」
勝手なことを言って遠藤は笑いながら朱実をおしのけ、高耶に耳打ちしてきた。その 奥で朱実が怒鳴り声を上げている。どうやら朱実も高耶狙いだったようだ。
「どうよ仰木。なんかイイのいた?なかなかの美女ばかりだろー」
そういわれても。高耶にはよく分からない。確かに女の子たちは可愛いとは思うけれ ど・・・。
「お前ってどういうコがタイプ?」
そう聞かれて、高耶は取り敢えず好みのタイプを思い浮かべようとした。
すると当然のように、ひとりの男の顔が浮かんでくる。
高耶は慌ててその映像を消去した。まったくの無意識だったというのに、的確に現れ たその姿に自分でも愕然としてしまう。
(なんであいつの顔が浮かぶんだよ・・・!)
クソッと舌打ちし、高耶は遠藤のビールを奪って一気飲みした。堅く目を閉じてあ おっていると、アルコールが喉から腹の芯まで染み渡っていく様が熱を持って感じら れた。このまま全身に回りきって、いっそ溶けてしまったらいい。
(直江・・・)
目を伏せたまま、現れた残像を再び再生してみる。
「直江」は鮮明で確かで、口もとにたたえた微笑は安堵を誘うほど優しく、とてもあ んな酷いことをした男には見えなかった。
いや、実際はそんな馬鹿なことをする男じゃないのだろう。おそらくそんな手段を 取ったのは、相手が自分だったせいだ。相手が、オレだったから。たぶん自惚れじゃ ない。
直江はあの時完全に、余裕を無くしていた。
考えれば考えるほどたまらなくなる。
憎しみと情がせめぎ合う。
なんでこんなにもあいつのことばかり、考えてしまうのか。
どうしてオレは、おまえなんか好きになってしまったんだろう・・・。

心が、別のところにある。
置いてけぼりを喰らわされ、今もまだ雨のなか、ひたすた待ち続けている。
やがて寝入ってしまったオレを、優しい声が起こしてくれるのを。
誓いを裏切り、心はきっと、まだたったひとつの声を待ち望んでいるのかもしれな い。





「では日取りは来年の四月を目途に、ということでいいかな?」
「はい。結構です」
「ではそれまでに麻衣子さんのご両親も併せて一度会食を・・・」
直江は遠く父の声を聞きながら、窓の外を眺めていた。
隣に座る麻衣子は頬を幾分朱に染めて、豪奢な着物に身を包んでいる。
橘の実家に麻衣子を伴って帰ってきた早々に持ち出された結婚話に、だが直江は生返 事を返すばかりで心ここに在らずと言った風である。
事実こんな結婚には全く興味がなかった。だが例え真似事でも空虚で満ちていようと も、やらねばならない決めごとに嘆息する。
夕食を橘の家族と共に取ることに緊張していたらしい麻衣子も、すぐに気さくな兄・ 照弘に和らげられたのか、にこにこしながら話に聞き入っている。
直江はぼんやりと、夜空を見上げた。
窓の空は灰雲が薄く伸び、上ったばかりの月を覆い隠そうとしている。











『泡沫の恋』《11》  END

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