泡沫の恋 《10》
 


泡沫の恋≪10≫



ドクン ドクン ドクン
鼓動が胸を突き破りそうなほど激しく早鐘を打つ。
ハア ハア ハア
呼吸が喉を嗄らすほど喘鳴を繰り返す。
こらえてもこらえても、涙が頬を伝っていく。
振り切るように駆け、足が砕けそうになりながら走った。あそこに居続けることが出 来なくて逃げた。
・・・・・・悪い夢でも見ているのだろうか。
先程の直江の言葉は本当はタチの悪い冗談ではないのか。
なぜなんだ。なんでどうしてあんなことに。いつから―――あんな。
分からない。混乱する。
分からない。正気じゃない。
あんなのは愛じゃない。愛とは互いに慈しむことではないのか。互いの幸せを願い、 幸せのために癒し合うことではないのか。
分からない。あんなエゴが愛だなんてそんなの違う。なんであんな酷いことを。どう して。どうして。分からないわからない!
直江・・・・・・!

「おっと!」
唐突に誰かと勢いよくぶつかった。
反動で倒れかけるところを、相手がガッシリと腕を支えてくれたおかげで何とか転ば ずに済む。
ぼんやりと見上げると、濡れた瞳に見知った人物の顔が映っていた。
「高耶?どうしたんだよお前、んなに慌てて」
「・・・ち、あき」
千秋だった。本日はグラサンにアロハシャツにジーンズ、という出で立ちだ。
最初驚いた顔をした千秋は、サングラスを外しながら、
「まァちょうど良かった。お前を探してたんだよ。授業サボってどこに・・・・・・高耶 ?」
高耶の頬に涙の痕を見つけ、千秋は眉をひそめた。
高耶の様子が目に見えておかしい。
どこか呆然としたまま、放心したように千秋を見上げてくる。
そしてまた一粒、瞳から新たな涙が伝った。
「・・・高耶・・・?」
力無く、高耶は千秋に縋り付いた。
誰かに縋らないと、このままこの場にへたり込んでしまいそうだった。そして二度と 立てない気がしたのだ。
震える手で千秋の襟を握り込み、嗚咽を堪える。
胸に顔を押しつける高耶を暫く見つめ、千秋はゆっくりと首を巡らせた。
高耶が走ってきた方向に、研究室の建物がある。
「・・・・・・」
目に力を込めて、千秋は8階を睨み付けた。



                         ◆◇◆◇



銀のチェーンがグラスに映り、中の液体と溶け合うようにゆらゆらと揺れる。
木製の黒いテーブルに幾つか水滴がこぼれ落ちると同時に、氷が崩れる小気味よい音 が空気を振動した。
ふいにチェーンの銀が視界から離れた。
千秋の腰にぶら下がっていたそれは、持ち主と共に目線から消える。
高耶はそれを追う気はないのか、じっとグラスの中味を凝視していた。
椅子に片足を抱えて座り、その脚に両手をついて顔を伏せている。
ようやく落ち着いたのか、もう泣いてはいなかったが、高耶らしくなくその瞳はぼん やりしたまま曇っていた。
千秋はキッチンから黙ってそんな高耶を見つめる。手元では淹れたばかりのコーヒー をカップに注いでいた。いい匂いが立ち上る。
沈黙が降る中で、移動してきた千秋が高耶の向かいのテーブルに付く。
コーヒーを啜りながら、高耶の前にもカフェオレを差しだした。普段はブラックを好 む高耶だが、本当は苦手なのに意地を張っていることを千秋は知っていた。昔から高 耶は千秋の入れてやるカフェオレが一番好きなのだ。
もう何年に渡るつき合いだろうか。小学生の頃から知っている高耶がいつも落ち込ん だ時には、いつからか決まってこうしてカフェオレをいれてやるのが癖になってい た。
だが今回の高耶はいつもと違う。いつもは地の果てまで落ち込んで塞ぎ込み、だんま りを決め込んだまま次第に冷静になってくものだったが、今日はどこか透徹としてい る。
じっと黙り込んでいるのは変わらないが、そこにはなんの感情も働いていないように 見えるのだ。
千秋はコーヒーをひとくち含み、ゆっくりと嚥下してからポツリと尋ねてみた。
「・・・で?なんかあったのか」
「・・・・・・」
思った通り、高耶からの返事はない。
「お前、いったいどこ行ってたんだ?走ってきた方向からすると、直江のとこか」
「・・・・・・」
「あいつとケンカでもしたのか?最近は上手くやってるようだったけど」
「・・・・・・」
「なにか嫌なことでも言われたのか?それともなんかされたのか」
「・・・・・・」
「高耶」
「・・・・・・・・・」
高耶は完全に顔を伏せてしまい、そのまま蹲ってしまう。
軽く嘆息して、千秋は注意深く高耶を覗き込んだ。
「なにがあったんだよ。・・・言えよ、高耶」
高耶はゆるく首を振った。
「俺には言えないことなのか?それとも俺には関係ないから言いたくない、か?」
まるで子供のように、高耶はひたすら首を振る。
その腕が微かに震えていることに、千秋は気が付いた。
しばらく黙って、またひとくちコーヒーを啜って、千秋はそんな高耶にふとこう言っ た。
「なぁ、お前さ。俺と直江の関係について、奴に何か聞いたことあるか・・・?」
高耶が微かに目を上げる。
「俺と直江が知り合いだってこと。お前、知ってた?」
「え・・・?」
思ってもみなかったことをサラリと言われ、高耶は目を丸くした。
「もちろん学生と先生なんていう間柄じゃなくてな。じつは結構以前から奴のことは 知ってたわけなんだな、コレが」
「そんなこと・・・」
「聞いたこともなかった、か?まぁ確かに直江はんなことまでお前に言う性格じゃ ねーよなァ。でも奴は、俺とお前が幼なじみだってことは知ってんだぜ」
「・・・・・・。そんなことまで」
調べたのだろう、おそらく直江は。どうやって高耶の居場所を突き止めたのかはよく 分からないが、たぶん、今までの経歴全てを調べ上げられたのだろう。思いもよらな いところまで。全部。千秋はそれを肯定するかのように、
「もちろん俺が言ったわけじゃねぇ。あいつが根性で調べやがったのさ。お前のこと なら、もしかしたら俺より詳しいのかもな」
「・・・・・・いつから・・・」
高耶はようやく鈍い目を上げた。
「おまえはいつから知ってたんだ、千秋」
下から睨んでくる目は怒気を孕んでいた。その口振りから、おまえもオレを騙してい たのか、と無言で聞いてくる。
「・・・俺は知ってた訳じゃねーよ。直江がお前のことを、そういう感情で想ってるこ となんて全く知らなかったさ。知ったのは、ほんのつい最近のことだ」
「・・・・・・」
「んな目で見んなよ。本当だぜ。あいつに何聞いたか知んねーけど、察しはつく。そ の様子じゃ全部聞いてきたんだろう」
唇を噛んで、高耶は目を背けた。
千秋はそんな高耶に言い聞かせるように、嫌そうにこう言ったのだった。
「直江はな、俺の高校ん時の家庭教師だったんだ」

高耶は今度こそ大きく目を見張った。
呆然として、目の前の千秋を見つめる。まさか直江と千秋にそんな接点があったなん て思いもよらなかった。あの直江が。この千秋相手に家庭教師?
二人が仲良く勉強している姿なんてとても想像できない。
「だーかーらー、んな目で見るなっての。ああもう、だから言いたくなかったんだ よ」
髪を掻きむしりながら、ふて腐れたように千秋はコーヒーを一気飲みした。
千秋が高校の時と言えば、ちょうど高耶の両親が亡くなり、交流が疎遠になっていた 時期である。高耶が知らないのも当然と言えた。
「俺の親父と直江の上の兄貴が大学時代の知り合いらしくてな。その頃ちょっと荒れ てた俺を見かねて、親父のヤローが直江に是非にって頼み込んだらしい。ったく余計 なお世話だっつの」
「兄貴・・・って、あいつ兄弟いたのか」
これも初耳だ。
「ああ、年の離れた兄貴がふたりに、姉貴がひとり、だったかな」
「へぇ・・・」
「直江の実家が栃木の方にある古い寺でよ。結構作法やらなにやらいろいろ厳しく て、ウチの親父までそれに感化されちまったのかもう口五月蠅いったら。・・・ってん なことはどうでもいいんだよ。で、ちょうど直江は大学に勤めてたんで、家教やるに は最適とかいって本人の意思無視で勉強やるハメになったわけ。この大学へ入れたの もそのおかげっちゃおかげだがな」
でも、と千秋は言葉を続けた。
「奴と関わってくるうち、だんだん分かってきたことがあったんだ。この男は、胸の 内に何かとんでもなくデカイなにかを抱えてるんじゃないかってな。実際直江がその ことに自分から触れたことはなかったが、その分やたら気になっちまって。普段は鉄 面皮のツラの下に何を抱えてんだろうって。見てて分かっちまうんだよな、なんとな く。ヤツは上手く隠してたつもりらしいが、この俺様の目を欺けるかっつの。・・・ ま、好奇心もあったかもしれない。ムシャクシャしてた腹いせのつもりだったのかも な」
「・・・・・・」
「直江は女にならいつだって不自由していなかったが、特定の恋人を作らなかった。 何か理由があるのかと思って、いつだったかヤツの友人の綾子ってヤツにそのこと聞 いてみたら、案の定、昔つき合っていた恋人が結婚寸前に事故死したらしい」
「事故・・・死・・・?」
ドン、と胸を殴られたような衝撃が走った。
「当時かなりショックを受けちまって、一時は精神的にもヤバかったらしい。そりゃ な、結婚を約束してた相手に死なれたらな・・・」
高耶は目を見開いたまま青ざめた。
まさかあの直江にそんな過去があったなんて。
「だけどその恋人が死んでもう何年も経ってるし、俺はヤツがその過去を引きずって いるようにも見えなかった。そうじゃなくて、もっとこう・・・なんつーか、今まさに 想いを抱えてるってーか、他に想う相手が現れたみたいな。そんな目をしてたんだ」
「・・・・・・ほかに?」
「ああ。ヤツには確かに別に想っている相手がいた。それが誰だかは、その時は結局 分からなかったがな」
空調の微かな音が耳を震わせる。
家賃の安い千秋のアパートのクーラーは、時折軋んだような音を立てていた。
「・・・けど、最近になってヤツに問いただしてみてようやく分かったんだ。その相手 が誰なのかが」
「―――え・・・?」
千秋は真っ直ぐにこちらを注視している。一筋に高耶のみを。
嫌な予感がして、高耶は後退った。
「その相手はお前だ、高耶。ヤツは当時から、もうお前のことを想っていたらしい ぜ」
「――――!」
高耶は固まった。そのまま絶句してしまう。
ちょっと待ってくれ。なにを馬鹿な。
だってオレと直江が出会ったのは、オレが大学に入学してからのはずだ。
オレが復讐のために直江に告白した、あの時のはずだ。
と、そのとき瞬時に直江の言葉が蘇ってきた。
――――初めての出会いを、きっとあなたは覚えちゃいない。けれど私にとってそれ は全てが覆       されたかのような衝撃だった。
――――その瞬間から、私の生活には常にあなたがいた。名前も歳も、どこに住んで いるのか       さえ知らないあなたのことで、一日中頭が一杯だった。
「あ・・・・・・」
確かに、直江はそう言った。だが高耶は覚えていない。直江とそんな昔に出会った覚 えなんてまったく、ないのだ。
だから妄想かと思った。あれは直江の作り話だと・・・。でも、ならどうして「高耶」 なのか。どうしてその相手が、今まで一切の関わりすらなかったはずの高耶なのか。
「し・・・らない・・・・・・」
「高耶?」
「オレはそんなの、知らない!あいつと出会ったのはこの大学でだ!でなかったら、 美弥が退院した日に遠目で見たくらだ。オレはあいつなんて知らなかった!」
「落ち着けよ。お前が忘れてるだけかもしれないだろ?」
「そんな・・・こと・・・っ言われても、急にそんなこと言われても、オレの記憶にないこ とでそんな風に想われても、どうしたらいいのか分かんねーよ・・・!」
泣きそうな声で、高耶は叫んだ。
頭の中がぐちゃぐちゃで、心は千々に乱れていた。
いきなり知った事実に理解が追いつかない。いや、理解なんて到底無理だ。だってこ んな、自分の知らないところで自分のことで、こんなことになっていたなんて。
机に顔を伏せ、高耶は頭を抱えて蹲ってしまう。
頭が痛い。ガンガンする。
千秋はしばらく黙ってそんな高耶を見守っていたが、やがてこう口を開いた。
「・・・俺から言えることはひとつだ、高耶。もうあいつと関わるな」
「・・・・・・」
「あいつは危険だ。あいつのお前に対する感情は、普通じゃない。どこか病的だ。こ のままだとお前、ボロボロにされるぞ」
ビクリと肩を震わせ、高耶は息を呑んだ。
「昔からどこか危険な男だった。その証拠に、あいつが美弥ちゃんにやったこと、も うお前も分かってんだろう」
「・・・っ」
「薄々勘付いてはいたんだ。そのうちなにかやらかすんじゃないかってな。・・・まさ かこんな馬鹿な真似をするヤツだとは、呆れを通り越して反吐が出るが。これでも責 任感じてんだぜ。理由はどうあれ、よりにもよってお前から直江に告白させちまうよ うな真似するなんてな。あいつにとっちゃ、願ってもない状況だったわけさ。いまさ ら言ってもしょうがないが」
直江があんな簡単に告白を受けた理由は、これでハッキリした。
「あいつはお前を手に入れるためなら手段を選ばないだろう。どうしてお前にそれほ ど入れ込んでるのかは知らねーが、これ以上ヤツには近づくなよ。いいな、高耶」
念を押すように、千秋はきつい口調でそう言い置く。
高耶はきつく、唇を噛んだ。
握りしめた拳がふるえる。
じっと目を閉じ、男の顔を思い浮かべる。
憎しみなんだか悲しみなんだか、わけの分からない思いが込み上げてきて、たまらな くなって高耶は小さく嗚咽を洩らした。

直江・・・・・・。



こんなことはうそだろう・・・?
なにかの間違いなんだろう?
こんな真実ははじめからどこにもなくって、
オレはようやく訪れた幸福に身を委ねているはずだ。
おまえはきっと、オレの嘘を笑ってゆるしてくれる。
微笑って、抱き締めてくれる。
もう、おまえを拒む必要もなくて・・・。
そうだ。
だってオレは、
おまえにちゃんと告げるつもりだったんだ。

おまえのことが、好きだって。今度こそ。

そう言うつもりで、オレは――――・・・



瞳からまた、新たな涙が頬を伝う。無様で情けなくて仕方ないが、涙腺が壊れでもし たのだろうか。どうすることもできない。
高耶はこの日、人の情念というものの哀しいまでの滑稽さと、痛々しさを、身を持っ て知ったのだった。








『泡沫の恋』《10》  END

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