――第四話―― ふと、目を開けると世界が真っ白だった。 雪かとも思うそれは桜だ。次から次へと切れ目なく舞い振る桜の花びら。ひらり、ひらりと、視界を白く染めていく。 幻想的で、どことなく澄み切った怖さのあるその桜を見上げ、咲羅はあの彼岸桜の見ている夢なのだとは感じていた。花の色は違うが、この桜はあの、彼岸桜だ。 桜の花びらを意識することなく視線で追っていると、笑い声と共に一人の少女が桜の元へと駆け寄ってきた。 「ねえ、聞いてちょうだい桜さん。私ね、昨日始さんに求婚されたの!やっとよ!」 少女はその時の事を思い出しているのか、少し頬を赤く染め桜に笑いかけている。それに桜が嬉しそうに鳴いた。少女の歓喜を感じ取ったように、そして祝福するように幹を震わせる。 そんな桜の声が聞こえているのだろう。少女は耳を澄ますように目を閉じると桜の幹に抱きついた。 「ありがとう。桜さんも祝ってくれてるのね」 ここまで、まっすぐに桜へと向けられた視線はすぐそこにいるというのに咲羅をかすりもしない。どうやら、咲羅のことは見えていないようだ。咲羅は不思議な気分で目の前の光景を眺めていた。映画の中に紛れ込んでしまったような、奇妙な感覚だ。 「あっ、呼んでる」 静かに桜に抱きついていた少女がふいに顔を上げ、パッと瞳を輝かせる。どうやら、その最愛の相手が呼んでいるようだ。 「私、行かなくちゃ。また来るね、桜さん!」 少女が「始さん」と手を振りながら男の元に走って行くと同時に景色が流れた。早送りで見ているように目の前の桜が葉をつけ、さらにいつのまにか葉が完全に落ち、雪をかぶる。どうやら、今度の季節は冬のようだ。 と言う事は、あれから半年以上というかとか。 桜の根元には彼女がいる。 だが、一年にも満たない歳月で何があったというのか、顔に浮かぶのは微笑みではなく、口からこぼれるのはあの鈴のような声ではなかった。 「何で始めさんなの?どうして、始さんは死ななくちゃいけなかったの?どうして、遺体も拾いに行けない様な南の島で…!」 後には言葉にならない嗚咽が辺りを覆う。桜の木がそれに同調して、今度は悲しみに幹を震わせていた。 「どうして、生きて帰ってくるって、あの時言ったじゃない!」 彼女の叫び声と共に意識が飛ぶのを感じた。 気が付くと再び桜の木は真っ白な花をつけている。 先程から、目まぐるしく変わる状況について行けずに、貧血のようにふらつく頭を咲羅は軽く振った。頭の芯がボーっとする。 だが、ふいに、真後ろに人の気配を感じて咲羅は慌てて振り向った。すると、案の定そこには彼女がいる。咲羅は驚いて思わず飛びのいたが、次の瞬間凍りついた。 彼女の体は赤く染まり固く握り締めた手の中には赤く染まりながらも鈍く銀に光るナイフがあったのだ。瞬間、彼女が怪我をしているのかと思ったが、すぐに違うと悟る。彼女の服を赤に染めているのは、返り血だ。彼女が手にしているナイフで刺した、人間の血。しかも、その量を考えれば、到底相手は生きていないだろう。 「もうだめ、私はあなたの所には行けなくなってしまった。こんなに穢れてしまったのだから。」 そう言うと何が楽しいのか一人くすくすと笑う。明らかに焦点の合っていない瞳には狂気が見え隠れしていた。儚い脆さが逆になんともいえない幼さと美しさという、一見矛盾する二つの空気をかもし出している。そしてそれを、助長するように、桜の花びらが彼女を包みこんでいた。周りを真っ白な桜の花びらで埋め、優しく抱きこむ。 「おい、いたぞ!こっちだ。」 男の怒鳴り声に咲羅が驚いて振り向くと村の男衆らしい者がものすごい形相で駆け寄ってきていた。 「この魔女め!己の父親を殺すだけでは飽きたらず、お前のような女でも嫁にしてやると言ってくれた俺の弟まで!」 いつのまにか周りを完全に囲まれている。それぞれの目には濁った怒りと軽蔑の光が見える。 「近寄らないで!あんな男死んでいいのよ!村での権力欲しさで娘を売った男も、無理やり私を抱いたあの汚い男も!」 かつては朗らかな笑い声をたてていた彼女の口から悲痛な叫び声がほとばしる。 咲羅は彼女が自分を狂気の底に落とした理由を悟った。そしてそれと共に侮蔑を込めた怒りが湧き上がってきた。 最愛の夫を戦争で亡くし、その夫との思い出を抱いて生きていこうとしていた彼女を、己の欲望を満たす為に踏みにじったのだ。 辺りに彼女の笑い声が響く。 「この尼ぁ!捕まえろ!」 周りを囲んでいた男たちは掛け声と共に彼女に飛び掛った。咲羅は思わず風を呼び、男たちの足を止める。風には過去も未来も ない。そのため、どこであっても咲羅の呼びかけに応じるのだ。突然足が動かなくなった男たちはパニックに陥った。しかしそれを 目の当たりにしているはずの彼女は焦点の合っていない瞳で別の物を見ている。 「始さん。行ってもいい?それとも、」 そう誰もいない空間に向かって呟き、さらにきつくナイフを握り締めた。 「待っていてね…」 次の瞬間、視界が真っ赤に染まる。 後ろで動きを封じられた男たちが悲鳴を上げる。そして咲羅の気が揺らぎ、風が去ると、転がりながら逃げ出した。 後にはもう冷たくなり始めている彼女と血に濡れた真っ赤な桜。そしてその血の海の中で状況を把握できない咲羅だけが残された。 「…羅、咲羅!」 咲羅は誰かに名を呼ばれ、うっすら目を開けた。見慣れた顔と真っ赤な桜が目に映る。 さっきまでは真っ白だった桜。彼女の血と叫びを吸収して、花びらは赤く染まったのだろう。夢と現の境目でそう思う。この桜の圧巻なまでの咲きかたには、桜の悲しみがあったのだ。 「咲羅、俺が判るか?」 瞳を開けたまま、自分を通り越して、桜を見上げる咲羅に心配げに声をかける。 「…鳶?」 ようやっと焦点があった先に見えた顔にポツリと呟く。 咲羅が応えたことに安心し、鳶はため息をついた。 「そうだ。全く、“桜”がすぐに咲羅の所に行けって言うから来てみたら、お前はこんな所で気ぃ失って倒れてるし。俺が来なかっ たらどうするんだ」 いつもの調子の鳶の声に咲羅はゆっくりと体を起こす。さらりと、地面に付いた手が桜の花びらをこすり、視線を転じると夢の名残か、真っ白な桜の花びらだ。 咲羅の手のひらの中の真っ白な花びらに鳶はわずかに、眉根を寄せたがそれについては何も言わず、手を差し伸べた。 「とりあえず行くぞ。」 「あぁ。」 咲羅は差し出された手をつかんで立ち上がる。先程の夢の余韻がまだ残っていて、頭の墨に靄がかかっている様な感じがする。 「それにしてもすごい臭いだな。俺でもびんびんに闇の気配を感じる。」 「まあな。でも、まだましになったんだ。」 「そうだろうな。…なぁ、咲羅なにかあったのか?」 咲羅は鳶の方を思わず振り返る。 「どうして…」 鳶は咲羅の放つ気がいつもより冴えないのを見抜いていたのだ。鳶の方をしばらく見ていた咲羅は鳶の視線から逃れるように前を向いた。 「なにかって?」 咲羅はとぼけた様に問い返す。 「…話す気はない、か。」 鳶の言葉への返事はない。 「…判った。でも俺が来たんだ。一人で無理するなよ。」 鳶の言葉に、何のことか分からないな、と、咲羅は軽く笑い返し、手を前に掲げた。 そこは先程咲羅が張った結果の境目だ。咲羅の張る結界は咲羅にしか開けられない。咲羅の手に先から暖かい光がこぼれ、それと同時にすうっと結果が開く。 「鳶、先に行け。すぐに閉じる。」 咲羅の言葉に従い鳶は急いで、外に出た。 それに続いて咲羅自身もすぐに表に出る。 外では分家頭の鴻野上が咲羅を待ち受けていた。 |
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