紫 荊  ・  茶 楼









香港島の夜景の名所、ヴィクトリアピーク。
そのふもとともいえる中環(ヅォンワン)には多くの高級マンションが建っている。地震のない香港では建物に対する規制が少ないのか、高さを競うかのように上に上にと街は成長していくのだ。
そんな中でも一際目立つ綺麗なそして高いマンションの最上階のペントハウス。元々一つの階には一つの部屋しかないそのマンションでは、ペントハウスともなれば、普通の一軒家よりもずっと広くなる。そんな場所から、物語は始まる。




* * * * * * *



「もー我慢できねぇ!普通の日の普通の朝食にどこをどう間違ったら、鮑魚粥が出てきたりするんだよ!どう考えたって、皮蛋痩肉粥で十分だろ!」
高耶の怒鳴り声に、朝食を作ったコックが首を竦める。
今まで鮑魚(あわび)でないと怒鳴られたことはあったが、具が皮蛋痩肉(ピータンと豚肉)でないからと怒鳴られることなどなかった。そんな彼にしてみれば、怒鳴られているわけがわからない。
今月に入ってから、この家のコックを任されるようになった、王は地元の人にはまず入れないほどの高級酒家のオーナーシェフでもある。それはつまり、高級な食材を使っての料理に慣れていると言う事で、さらにこの家には使いきれないほどのお金があるのだと知っていれば、どうしても使うものは高級な食材にとなってしまうのだ。
そして、高耶からしてみれば、どうして普段からそんな高級食材を使わなくてはいけないんだ!と、憤る。初めの一週間ほどは我慢した。自分でも長かったと思う。本当に辛抱したと思う。もしかしたら、はじめて来たから特別なのかもしれないと、我慢してはみた。
だが、その我慢ももう限界だ。そして、運のいいことに、今日は朝からお目付け役がいない。
それだから、ここぞとばかりに高耶は王をにらみつける。
「おい、王!お前、クビ!さっさと、自分の超高級酒家にでも、帰りやがれ!!」
首を竦めている王にそう言い切ると、高耶は盛大な音を立てて、ドアを開け閉めし、部屋を飛び出した。そしてそのままこのフロア専用のエレベーターに乗り込むと、怒りに任せて、一階のボタンを押す。
「高耶様!!」
慌てて後を追ってきたメイドの叫び声が廊下に響いた頃には、エレベーターの扉はすでに閉まっていた。





「だぁ、あんま金ないなぁ」
九龍半島と香港島をつなぐスターフェリーの泊り場でジーパンのポケットから取り出した財布を覗き込んでいた高耶は、思わずそう呟く。カードを除いてしまえば、財布の中には10ドル札が一枚と小銭がいくらかあるのみ。それでも、取るものも取らずに家を飛び出して来たにしては、入っていたと思うべきだろうか。とりあえず、1.7ドルあれば香港島を出て、九龍半島へと渡れる。渡れさえすれば、用はたせると、高耶は二ドルコインを取り出し、受付にコインを差し出した。
お釣りを貰って歩き出すとちょうど出航間際で、高耶は大慌てで船に飛び乗った。そのすぐ直後に渡り橋が上げられて、低いモーター音と共に、船が動き始める。ホッと息を吐いて、辺りを見回すとやはり開いている席などなく、そのまま視線を海へと流した。
かぎなれた磯の香りと船のエンジンからするオイルの匂い。上の一級客室とは違って、地元の人間が所狭しと薄暗い船室に集まっているために、ごみごみ、ざわざわとしている空気。
どれをとっても懐かしさがこみ上げてくるようなものばかりだ。
今でこそ、海底道を車で行くか、そうでなかったとしても地下鉄を使っているが、昔はいつだってこのスターフェリーの二級船室だった。車なんて持っていなかったし、地下鉄も9ドルと高すぎて普段使えるようなものではなかったのだ。上の2.2ドルする一級船室にだって、ほとんど乗れなかった。それが、ごく普通の生活だった。確かに、豊な暮らしだったとはいえないだろう。それでも、今の生活よりもずっと、性に合っていたと思う。
船室から次第に近づいてくる九龍半島を見ながら、高耶は溜息をついた。
この先ずっと、今のような生活を続けていかないといけないのかと思うと、思わず表情が苦くなってしまう。いや、将来的には今よりすごい生活を送らなくてはいけないのだろう。自分には、世界でも有数の華僑グループのトップというレールが用意されているのだから。
朝目が覚めて、いままでとは比べ物にならないほどに綺麗なベッドで寝ているのだと気がついたとき、何気なく出される食事が高価なことに気がついたとき。そんな時は、自分の本当にささやかな夢とはあまりにもかけ離れた現実が、自分の周りには張り巡らされているのだと、自覚せずにはいられないのだ。
もっとも、それを歎くつもりはない。変えられないものとして用意されたのならば、受けて立つだけだ。
けれど、それでも。かつての暮らしがふとした瞬間に蘇ってきて、そのたびに懐かしさが溢れてくるのを止められない。無性に雑然としたあの空気を吸いたくなってしまう。正体の見えない気持ちが生まれてしまう。
心地よい海風に髪を棚引かせながら、高耶は近づいてくる光景にすっと目を細めた。




急かされるようにスターフェリーを降りると、そのままぷらぷらと歩いてネイザン・ロードに入った。
表通りとも言えるこのとおりは人も車も多い。そんな道を北上していく。この辺りはペニンシュラホテルのような超一流ホテルがあるかと思えば、イスラム圏の男が、観光客相手にバッタものの香水や時計を売っていたりもして、新しいものに、古いもの。高級なものから廉価なもの。あらゆるものが氾濫しているといえる。建物も一、二階は小綺麗なのに三階以上は居住空間で古い壁が剥き出しになっていて、さらに所狭しと洗濯物が外に向けて乾されている。生活と外に向ける顔とが一緒くたに存在しているせいか、表通りとはいえ、精錬されきった無機質な印象は全く与えない。
そんな雑多としたとおりをひょいひょいと時折店を冷やかしつつ、歩いていき、見えてきたあまり広くない道を右に折れた。大分細くなった道を速い速度で走り抜けていくタクシーをやり過ごすと、高耶の姿を見つけた店のあちらこちらから声を掛けられるようになる。それらの声は売り物を勧める客相手へのものではなく、親しい者へとかけるからかいも交えた挨拶だ。
「高耶、久しぶりだな。元気にしていたか?」
「生きてたか?」
次から次へとかかる声一つ一つに笑いながら早い広東語で返していき、時には売り物のごま団子なんかを貰い、通りを歩いていく。あちらこちらからする食べ物の匂い。この街はいつだって、食べ物の匂いがしていて、誰かが空腹を満たしているのだ。
店先にあるものも食べたいけれど、とりあえず貰ったごま団子を食べきって、それからぺろりと指を舐めた。
そして、小さな横道の入口の前で、足を止めた。


ー続くー







少し前と言っても大分経つのですが、友人と香港に行きました。
そのとき以来、香港に惚れこんだ私は、
今も次に香港に行けるときを狙ってます。
そして、その香港熱をそのまま
いただいたリク小説にかぶせてしまった私です。
お題は、「直江の手料理」。
直江のお役目は香港料理人か、はたまた?!








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