殺してやる。 このナイフであいつの息の根を止めるんだ。 それで終わる。 それで、この苦しみから逃れられる。 きっと、母さんを救ってやれる。 雅和はコートのポケットに忍ばせたナイフをきつく握り締めた。 握り締めるその掌は冬だというのに汗をかいていた。 これから成そうとしていることへの緊張がそうさせる。 しかし、 その中に罪悪はない。ただ、背徳じみた愉快さがあった。 母を救うことへの薄っぺらい正義感。 父を殺すことに対する、征服感。 その二つが相まって、必要以上に雅和を高ぶらせた。 そこにさらに、あの男がこの世にいる限りは幸せになれないのだという強迫観念が後を追ってくる。 ――殺さなくてはいけない。 雅和は小さく呟く。 今、雅和の中にあるただ一つの言葉。それを呪文のように唱える。 殺さなくては・・・ 風が身を切るように吹き荒び、周りの温度をまた一度、下げていく。 雅和は耳朶に感じる鋭い痛みに歪んだ笑みを浮かべると、くいっと上を見上げた。 電信柱に掲げられた住所が目に入る。 四丁目。 目的地は三丁目だから、あと少しだ。 離れた所から聞こえてくる喧騒が膜の向こうで反響していた。雅和を嘲笑うかのように聞こえたその音はやがて、母親を詰る父の声となる。 それを今までにないほど心地よく聞きながら、雅和は殺さなくては、ともう一度呟いた。 カチッカチッと軽い機械音につられて前方を見遣ると、信号が青から赤へと変わりかけている。それを見て、雅和は自然と歩を止めた。 そしてふいに、自嘲の笑いが漏れる。 これから人を殺しに行こうとしている者が、道交法は無意識に守るのか。 いっそ、このまま足を進めようか。 車がせわしなく動き出した道路を見遣りながらそう思う。 一歩足を踏み出せば、この場は混乱に陥るのだ。 それは父殺しと同じほどに気分を高揚させた。 父を殺してからここに戻ってくるのもいいかもしれない。 しかし、そんな雅和の思考を遮るように真後ろで声が上がった。 若い女性の叫び声。 「まい!!」 届いた叫び声とほぼ同時に、雅和のすぐ脇を小さな影が横切る。 何も考えていなかった。 無意識に前へと踏み出し、腕を伸ばす。 辺りに響く多数の叫び声と、耳をつんざくようなブレーキ音。 全てが交錯し木霊する中、静寂が訪れ時が歩みを緩める。 伸ばした手は確かな質量を捕え、生き物のぬくもりを伝えてきた。 「っ・・・!」 捕まえたものを己のほうへと引き寄せ、そのまま後ろに転がると体に鈍い痛みが走る。 真っ白な空間だった。 手にぬくもりを感じた瞬間、覗いた世界は光に満ち溢れた真っ白な世界。 その世界に盛大な泣き声が響き渡った。 急速に色を取り戻す世界。 胸に子供のぬくもりを抱いて、雅和は初めて己を取り巻く世界で息を吸った。 雲の間から光が差し込んだ。 「ありがとうございます。ありがとう」 一度は青になった信号が再び赤へと変わる。 何度も何度も頭を下げ、礼を言ってくる母親に同じく頭を下げると、雅和は身を翻させ、今来た道をゆっくりと引き返し始めた。 end 戻る |
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