「冬眞様、岡川の方がいらっしゃいましたが、いかが致しましょう」 春の陽気に誘われるままに庭を散策していた“冬眞”と呼ばれた青年は、声を掛けられて振り返った。 青年は江戸時代にしては高いと言える身長で、腰も高く、見るほうが一瞬怯むような強い光を瞳に宿している。 普段から結われることを嫌われている漆黒の髪は、月代もなく、今日もどこにも出かけないつもりなのか、肩にそのままかかっていて、その様が絶妙な色香を醸し出していた。 「岡川のどなただ?」 「末の息子の為紀殿です。何でも今日は冬眞様に直接と申しておりますが・・・」 「離れにお通しして、誰も近づけさせないでくれ」 暗に大事な話があることをほのめかして、それ以上用件を伝えに来た使用人に注意を向けることなく、冬眞は歩き始めた。 離れには庭から直接行けるようになっているため、そちらから向かうつもりのようだ。 春霞のような淡い色の着流しをつけ歩くその姿は、知らず知らずに他人の視線を集めるが、自宅の庭の中とあって冬眞以外 は誰もいない。 小さいとはいえ旗本家であるこの家の庭は、それなりの広さでこの屋敷の世話を任されている冬眞の趣味なのか派手ではないものの居心地がいい。 冬眞は客を待たせているというのに急ぐようもなく、ぶらぶらと庭を進んでいく。 やがて、少し大きな楠の陰から建物が現れ、そちらへと歩を進めた。 離れと言ったように母屋とは一本の廊下で繋がっているだけだ。 ここからでは客がすでに離れに来ているのか分からないが、冬眞はそんなこともどうでもいいのか歩く速度を変えることもなく離れの庭のほうへと回る。 「遅かったですね」 ふいに中から呼びかけられて、冬眞は声の主を見遣った。 「相変わらず、武士とは思えない格好ですね」 「うるさい。お前は小言を言いにここまで来たのか?」 「まさか、そんな事あるはずないでしょう?お久しぶりです、冬眞様」 嫌味のように名前を呼ばれて、冬眞は眉を寄せる。 「嫌味か?」 「何がです?」 分かっているのにわざわざ聞いてくる男、為紀にさらに眉の角度をあげたがすぐに諦めたかのようにため息をついた。 縁側で下駄を脱ぎ、迷うことなく上座に腰を下ろす。 「京都の方はどうだった?為紀」 先程の仕返しにこちらも嫌がるであろう方の名前で呼ぶ。 しかし、そんな冬眞の態度に慣れているのか、為紀は顔色一つ変えずに質問に答え始めた。 「暴れていたのは軒猿の報告の通り、心中した女性でした。 どうやら、男の方だけが死にそこなったためにその男を呼んでいたようです」 「それで、どうしたんだ?」 「説得を試みましたが、言葉が通じるような段階ではなかったので、やむをえなく調伏してきました」 「やむを得なく、な。それで?」 ほかに方法がなかったという男に冬眞は鼻で笑い、先を促す。それに為紀はピクッと反応したが、すぐにもとの無表情な顔に戻り、報告を続ける。 「それから、生き残った男を探し出して、供養を頼んできました」 「そいつは何をしてたんだ?」 「・・・ほかの女性と縁を結び、子供もいました」 一瞬の沈黙の後に自分の見てきたものを語る。 心中があったのは今から四年前、もう、そのときの事を忘れてほかの女性と子を為していてもおかしくはない年月かもしれない。もっとも、心中に失敗した者は3日間の晒しの上に非人手下されるため、普通の女性とは縁など結べない。 だから、相手の女性も同様に心中に失敗した人間だった。 お互いの傷痕を舐め合ううちに間が深くなったに違いない。 そんな自分の考えに吐き気がして、ふと前を見ると冬眞も似たような顔をしている。 おそらく似たような事を思っているのだろう。 彼は見た目に反さず、殊恋愛関係においては潔癖な所があるのだ。 「供養の方は請け負ってくれたので、それで今回の件は終わらせてきました」 「そうか、軒猿たちもねぎらっておいてくれ」 「御意」 己も働いたのに、その事に対するねぎらいの言葉の一つもかけられない。 それでもその事に気付かないかのように為紀は深く頭を下げた。 その為紀の目に冬眞の指先がふと映った。 「泥が・・・」 「泥?」 指摘されて冬眞は指を目の高さに上げる。 確かに、人差し指に泥がついている。 先程庭を歩いていた時に付いたのだろう。 懐紙でふき取るのもめんどくさくて冬眞は無造作に泥のついた指を口に含んだ。 見ていた為紀の息が止まる。 冬眞と為紀の視線が絡み、冬眞は為紀を意味ありげに誘う。 意識したのが先か、それとも行動が先か・・・ 次の瞬間に、為紀は冬眞の指を奪い、己の口に含んだ。 含んだ指を丹念に舐めて、清める。 それがすむと、為紀は隣の指へ舌を這わしていく。 暖かい、舌の感触に冬眞は堅く唇を噛み、漏れそうになる声を押さえた。 視線だけは絡め合い、決して逸らさない。 その行為は愛撫と言うよりも、闘いのようだ。 やがて、一通りの指を舐め終えた為紀は最後のとどめの様に掌に口づけ、手を離した。 「なおえ・・・」 ようやっと呼ばれた本当の名に為紀 ―直江― は口元を歪める。 「景虎様、今はこの辺りで、失礼させていただきます」 そう告げて、直江は深く頭を下げた後、力が抜け座り尽くしている冬眞 ―景虎― を一人部屋に残して、離れを後にした。 今夜、迎えにきますと、言い置いて・・・
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