「高耶さん、プールに行きませんか?」
直江がそんな事を言ってきたのは十月も入ってしばらくしてからだった。
「プール?でも、もう寒いけど・・・」
「温水プールですから季節は関係ありませんよ。
ほら、高耶さん八月の終わりごろに、『今年はあまり泳げなかった』って、おっしゃってたでしょう?」
直江に言われて、そんな事も言ったような気がして高耶はあいまいに頷いた。
「ですから、今からでも行きませんか?」
さらっと言われて、頷きかけて慌てる。
「今から?」
「はい。もし、何か用事があるんでしたら仕方ありませんが」
「いや、別に用はないけど・・・でも、やめとく。」
高耶の返事に直江は驚いたようだった。まさか、用事もないのに断られるとは思っていなかったのだろう。
「どうしてですか?特に、用事がないのでしたら構わないと思うんですが・・・」
すこし、しょげたような直江の声に高耶は言葉が足りなかったか、と話を続ける。
「あのな、直江、別に行きたくないとか、そういうことじゃないんだ。どっちかと言ったらすっげぇ嬉しい。
でも、オレは直江と過ごしたいんだ。」
「私と、ですか?」
いまいち言われた事が分かっていないらしい直江は聞き返した。
「そう。だってさ、直江、人前じゃ服脱がないだろ?
だから、プールに行ってもオレは直江とはいれないだろ?それが嫌なんだ。」
自分で言っていて顔が赤くなってくるのがわかる。
しかも、嬉しそうな直江の顔が視界の端に映るから余計だ。
「高耶さん・・・有難うございます。
でも、安心してください。今日は私もご一緒しますので。」
「えっ、でも・・・、お前、体の傷他人に見せたくないんだろ?
オレのことはいいからさ、無理すんなよ。」
高耶らしい不器用な優しさが嬉しかったのか、直江はほとんど手放しの笑顔を浮かべ、高耶を抱きしめた。
「本当に、大丈夫なんですよ。貸切ですから。」
そう、耳元に囁かれ「そうなんだ」と、納得しかける。
「ちょっと待て、直江、今なんて言った?貸切?」
「はい、この間、一晩家を空けたときがあったでしょう?」
「あぁ、確かお兄さんに頼まれごとをされたとか言ってたやつ?」
高耶はそれが何の関係があるのかと聞く。
「実は、除霊を頼まれたんですが、そこがとあるホテルでして。」
直江が言うには、お兄さんの不動産屋で世話になってホテルを造った人がいて、その人からの依頼(?)だったらしい。
建てたホテルは始めの方はうまくいっていたらしい。
都心から少し離れたところにある楽園って言うのが売りで、それとは別の売りが最上階の特別室だった。
ワンフロアーすべてを一つの部屋が占め、客のニーズに合わせて専用の温水プールや、
ホームパーティーを開けるほどの部屋を使わせてくれるらしい。
もちろん、ものすっごい高いからなかなか予約は入らないが、ほとんど遊びのような感じで造った部屋だから構わなかったらしい。
ところが、その部屋にも予約が入り始めたころ異常な事に気付いたのだ。
それまでも、何もしていないのに蛇口から水が出てきたり、勝手にテレビがついたりと客室であったらしいのだが、
まだ新しいから少しぐらいの不都合もあるだろうと思っていたらしい。
ところが、あまりに続くので気になったオーナーが調べさせたところ、その異常な現象は少しずつ上の階にあがっていっていることに気付いた。
このままではやがて特別室でも、と思っていた矢先、その日の予約のために部屋の掃除に行っていた女の子が部屋に誰かいると騒ぎ始めたのだ。
もちろん、誰かがいるはずもない。
なのに、行ってみたら確かに鍵のかかったままの部屋の中から声がする。
思い切って開けてみたら誰もいない。
ドアを閉めると声がする。
こんな状態では客に泊まってもらえないと事故を理由にその日の客はVIP室に泊まってもらった。
その日はそれでしのげても、ずっとこれでは客足にも影響してくると泣きついた相手が直江のお兄さんだったのだ。
家のほうが寺をしているのを知っていたらしい。
話を聞いたお兄さんが白羽の矢を立てたのは直江だった。
そして、さっきの話に繋がるのだ。
あっと言う間に除霊した直江はオーナーに感謝してもしきれないと言われ、今度暇なときにでも泊まりに来てくれと言われたらしい。
その特別室に。
「連絡してみたら、今日、明日と空いているみたいなので、せっかくですから泊めてもらおうと思いまして。」
やはりさらっと言う、直江に高耶はため息をつくしかない。
既に、自分でもなんでため息をついているのかわからなかった。
「それで、どんな幽霊だったんだ?」
ホテルに向かう途中の車の中で高耶は直江に聞いた。
「さっきの話ですか?そうですね・・・一言で言うなら、ホテルが建つ前にそこに住んでいた女性ですよ。」
「女性?」
「はい。かつてそこで戦争に行った恋人と再会の約束をしていたみたいなんです。
戦争が終わって、二人とも無事だったらここで会おうと。
ところが、戦後少ししたらその女性の家は遠くに引っ越す事になって、結局会えなかったそうです。」
「それで、死んでから会いに行ったら、なんかでっかい建物が建っていて戸惑っていた、っていうことか?」
「そういうことです。まぁ、実際驚いたでしょうね。」
「・・・その人、恋人に会えたらいいのにな。」
「そうですね。会いたい人に会えないというのはつらいですから。」
かつて景虎を探していた時の事を思い出しているのか、直江はつらそうに頷いた。
こんな直江の顔を見ると自分の弱さを思い知らされるようで・・・
自分の弱さが嫌だった。
もちろん、あの時、記憶を封じていなければ今の二人の関係もなかったとは思う。
でも、もう少し強ければ、直江にこんな顔をさせることはなかったかもしれない。
今も、腕時計の下に隠されているリストカットの痕はそんな高耶の心を知らしめているようだった。
「高耶さん?」
突然静かになった高耶を不審に思ったのか、直江は顔を覗き込んでくる。
「大丈夫ですか?車に酔いました?」
「ううん、違う。ごめん。」
謝る高耶を直江は不思議そうに見ていたが、すぐに顔を前に向けて前方を指差した。
「高耶さん、あれですよ。」
ホテルに着いたのは出発したのが遅かったのもあって、もう五時になろうかとしている時だった。
車をホテルの人間に預けた直江は気後れしている高耶の手を引いて中に入った。
まっすぐにフロントに向かい「橘ですが」と告げるとすぐに奥に通された。
「橘さん、お待ちしておりました。この間はどうも有難うございます。」
部屋に入ると、オーナーだと思われる男に出迎えられた。
「いえ、それ以降、おかしなことはありませんか?」
直江の問に、全くないですと答え高耶のほうを見た。
「失礼ですが、こちらは?」
「お世話になっている方のご子息です。
今日はせっかく泊めてくださると言うので、一人より、二人の方がいいだろうと思いまして来てもらったんです。」
「初めまして、仰木高耶です。」
直江に促されて自己紹介をした高耶にオーナーは改めて目を向け、
「こちらもまだ自己紹介してませんでしたね。このホテルのオーナーのジョン・マクマリーです。」
笑顔を浮かべてジョンは頭を下げた。
直江とは少し違うがどこか懐かしいような笑顔。
どこで見たんだろう、と思いを巡らせても答えはみつからない。
黙り込んだ高耶とは別にジョンと直江はしばらく話を続けていた。
「高耶さん、行きましょう」
いつの間に話が終わったのか、直江に声をかけられて、高耶は顔を上げた。
「あっ、うん。」
ジョンの笑顔に何かを感じたのだが、その正体をつかむ前にその部屋を出ることになり、なんとも釈然としない気持ちだった。
直江はそんな高耶に気付いていないのか、何も言ってこない。
最後にジョンは帰るときも来てくれたら嬉しいと、高耶と直江の両方に告げ、秘書と思しき男を部屋に呼んだ。
「こちらです。」
案内されて通された部屋は話を聞いて想像していたものよりも数倍豪勢なものだった。
思わず、直江と暮らしている決して狭いとはいえない部屋と比べ、ため息が漏れる。
ホテルとは思えないほどしっかりした造りで、部屋数も「こんなにいらないだろう」と思うほどある。
キョロキョロと辺りを見渡す高耶に直江は
「荷物の方は私がとりあえず片付けてきますから、見てきていいですよ。私は前来た時に見てますから。」
と、苦笑しながら言う。
「ホント?やった、じゃぁ悪いけど見てくる!」
「行くぞ!」と元気な掛け声と共に高耶は部屋の探検を始める。
手当たりしだい部屋に入っていっては、「ほぉ」とか、「すっげー」とか、感嘆の声を上げていく。
その中でも一番気に入ったのは、壁の一面がすべて窓になっている部屋みたいで、すでに「ここで寝よう」とばかりに、
高耶が持っていたかばんを下ろした。
「高耶さん、今からどうします?先に夕飯を食べに行きますか?」
直江に問われ、枕もとの時計で時間を確認した高耶は少し考えた後、先に食べて、すこし休んでから泳ぐ、と答えた。
今から泳いでは、中途半端な時間になると思ったのだろう。
直江のほうも、そのほうが都合がいいと思っていたのか、異論はないみたいで
すぐにホテルの案内を広げ、夕飯を食べるところを高耶と検討し始めた。
続き
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