甘事 甘えるという事
ピンポン♪
休みの日もにも拘らず直江が仕事に駆り出されてしまって、二人の住居であるマンションに高耶は一人取り残された。 ここぞとばかりに家の掃除を始め、洗濯をし、いつもはやりたくても手の付けられない所まで、きっちりと片付けて。それでも昼過ぎにはやることもなくなって、ボーっと、おもしろくもないテレビを眺めていた時、そんな高耶の退屈を紛らわすかのようにチャイムが鳴った。
「はい、はい、今出ま〜ス」 聞こえていないのに、そう口にしながら、応答用の受話器を持ち上げる。 「はい、どなた様でしょう」 ――・・・高耶君?―― 受話器越しに聞こえてきた女性の声に高耶は一瞬眉を寄せ、それから納得して手を打つ。その拍子に頭と肩にはさんだ受話器が落ちそうになって、慌ててそれを受け止めた。 「冴子さん?」 思い出した名前を確かめると嬉しそうな笑い声が耳に届く。 「ご名答♪お願いがあるんだけれど、ちょっといいかしら?」
「お母さん、帰っちゃったな。お前寂しくねぇ?」 腕の中で嬉しそうにじゃれてくる赤ん坊をあやしながら、高耶は訊ねた。もちろん、いまだ一人歩きも出来ない子供が答えるはずがない。それでも、何かを言われたと言う事は感じ取ったのか、嬉しそうに高耶の事を見上げ、笑いかけてくる。 「・・・くぅ〜!!可愛すぎるぜ!!」 思わず、キューッと抱きしめる。 ふんわりと香ってくる甘い匂いに、懐かしさがこみ上げてきて、高耶はそっとため息をついた。 「冴子さん、旦那さんの出張に着いて行くんだってさ。お前、明日までお母さんなしだぞ?」 かつて、似たような事を美弥と話したことがある。出て行った母親の後ろ姿を思い出しながら、泣きじゃくる美弥を宥めるために。 「おふくろ・・・。・・・直江・・・」 懐かしい香りに思い出された母親の顔はそれを口にする前に直江の姿へと変わる。 一日や二日、会えないことなんかざらにあるというのに、何故だか今、無性に直江に触れたかった。
「ただ今戻り・・・」 仕事を終えた直江が戻ってきて、いつものように部屋の中に入ってきて、挨拶をしているとその言葉が途中で止まった。 「・・・?」 不思議に思って、赤ん坊を手にしたまま直江の元へと行く。 「直江?」 「高耶さん・・・いつ、こどもをつくられたのですか・・・」 「・・・は?」 「私に内緒で・・・。いや、高耶さんが浮気なんてされるはずがない。 ・・・もしかして、私達の子供ですか?」 一人で妄想を爆走させ、あまつさえそれを口にした直江に高耶の拳が震える。 「ふざけるな!オレは浮気もしなけりゃ、子供も産めねーよ!! よく見ろ!すずだよ、す・ず!!」 ずいと、差し出すように直江の方に見せ付けて、ついでに《力》ですずを支え、空いた手で直江に殴りかかる。 しかし、思わずグーになったこぶしを逆に直江にやんわりと掴まれ、そして握り締められた拳に口づけられた。 「分かってますよ。高耶さんが浮気をなさるなんて思ってません」 「お前はするかもしれないけどな」 「高耶さん!!」 過去に嫌って程女がいたし?と、《力》ですずをあやしながら上目遣いで直江を見上げると、慌てて直江がそれに反論しようとしてくる。それを笑い声で遮って、高耶はすずを腕におろした。 「冗談だよ。なぁ、すず?」 空中に浮くというおよそ普通の子供は体験できない事を体験していたすずは、うきゃぁと答えてから、もう一度とねだるように高耶の腕から外に出ようとする。それをダメだよと諌めながら高耶は直江に視線を戻した。 「・・・?どうかしましたか?」 「別にどうもしないけど、あの・・・その、おか・・え・・り・・・」 なんだかかんだで遅くなった言葉を伝えると、本来伝えるべきときと微妙にずれたからか、妙な恥ずかしさがこみ上げてくる。それが露骨に言葉と態度にでて、余計恥ずかしさを増させる。 自分でも分かるほど真っ赤になってしまった顔を見られたくなくて、高耶はすぐにくるっと背を向け、すずを抱いたまま直江の前から逃亡しようとするが、足が動かない。何の事はない、さきほどまで直江のいなかったリビングを見渡して、直江の触れたいと思っていたことを思い出してしまったのだ。 「高耶さん?」 顔を真っ赤にしたかと思うと、そっぽを向き動かなくなってしまった高耶を直江は不思議そうに呼ぶ。いつもはこっちが嫌だってぐらい、お化けのさとりに違いないと思うぐらい聡いくせに、何でもお見通しのくせに時々、本当にぽっかりと鈍くなるのだ、この男は。 今回もそんな感じなのか、高耶が止まってしまった事の原因を見通してはくれない。だから、自分から言える筈もなくて、結局はそんなものを振り切って、高耶はキッチンへと向かった。 「なぁ、夕飯さ、刺身定食でもいい?」 突然変わった会話の内容に戸惑いながらも直江は頷いた。 「えぇ。高耶さんが作ってくださるものなら何でもいいですが。 でも、今日昼ごはんがイタリア料理で、かなりこってりしたので、 刺身とかがいいなと思っていたんです。 なんだか、以心伝心みたいで嬉しいですね」 さっき、自分の心を読んではくれなかったくせに嬉しそうに語る直江に、高耶は憮然としながらもそうだなと相槌を打つ。普段の彼なら照れて、「バカ言ってんじゃね−よ」と言うに違いない。しかし、憮然としているのを悟られ、その理由を聞かれては困る高耶はそんな事まで気が回らなかったのだ。 「・・・オレ、夕飯作るわ」 どうしたらいいの分からなくなって、高耶は逃げるようにそう告げて、キッチンへと入っていった。
「げっ、醤油がない・・・」 カウンター越しに一人遊びをしているすずと新聞を読んでいる直江を見ながら、料理をしていた高耶はコンロの下にある棚を覗き込んで、呟いた。 「高耶さん?どうかしたのですか?」 その声を聞いて、直江が新聞を片手にカウンターへとやってくる。 「いや、醤油が切れてる。この間買ったと思ってたんだけどさ・・・」 おかしいなとぶちぶち言う高耶に直江は思わず笑みをこぼす。何度も戸棚の中を見直す高耶の姿は男から見れば、可愛すぎるのだ。 「高耶さん・・・」 カウンター越しに手を伸ばしながら名前を呼ぶと、高耶はその手に引き寄せられるように直江を見上げてくる。その頬に手を当てて、直江はにっこりと微笑だ。 「・・・なに笑ってんだよ。醤油ないのがそんなにおかしいか?」 「違いますよ。高耶さんがあまりにも可愛いから・・・」 「なっ・・・!」 「醤油、私が買ってきますよ」 高耶が文句を言い出す前に話を変える。そんな直江に高耶は一瞬不服そうに眉を寄せたが、それ以上何もいう事もなく、直江の発言の検討を始めた。 そして、おもしろい事を思いつく。 「・・・ダメ。オレが行く」 「どうしてですか?」 「お前の金銭感覚といい、なんといいあてにならない。 それに、ついでに切らしかけの調味料も買いたいし」 見もふたもない、高耶の言葉だが、紛れもない事実だ。 それを認めて頷いた直江に、高耶はにぃっと笑みを浮かべて一言付け加えた。
「だから、すずの事よろしくな」
その言葉におおよそ、赤ん坊などというものに縁のなかった直江が、呆然としたのは言うまでもないだろう。
〜後編に続く〜 |